【ばけばけ】吉沢亮演じる英語教師は「小泉セツ」をどうハーンの妻にしたのか
士族の娘への執拗なこだわり
ハーンとセツの長男である一雄は『父小泉八雲』のなかで、西田を「両親の媒酌人」と呼び、2人は「明治二十三年十二月」に結婚した旨を書いている。ところが、ハーンが翌明治24年(1891)の1月か2月に西田に宛てた書簡に、住み込み女中を求めていると記されており、セツの証言とも一雄の記述とも合わない。
『西田千太郎日記』の原本にも、元の文字が消され、脇に「節子氏」「細君」と書かれた箇所が見つかった。もとの文字は「ヘルン氏の妾」「愛妾」で、西田の次男がハーンとセツの遺族を慮って修正していたことがわかった。その結果、セツは明治24年2月ごろから住み込みの女中として、ハーンの近くで働きはじめたと解釈されるようになった。
それをセツが「嫁ぎました」と語ったのは、事実に反すると思われるが、「十二月」という時期については、旧暦の12月を指していた可能性がある。
若いころ西田との付き合いがあった桑原羊次郎の『松江に於ける八雲の私生活』には、花田旅館のモデルである富田旅館の女将ツネの、以下の証言が載せられている。
「(ハーン)先生にどこか士族のお嬢様を奥様にお世話したいというお話しが西田先生よりありまして、色々物色した末に、お信(註・ツネの娘)の友達に小泉セツさんという士族のお嬢様がおり、この方がよろしかろうということになり、私もそれがよかろうと同意致しまして、私方より先生に紹介しました。(中略)節子様の手足が華奢でなく、これは士族のお嬢様ではないと先生は不機嫌で、私に向かってセツは百姓の娘だ、手足が太い、おツネさんは自分を欺す、士族でないと、度々の小言がありましたので、(中略)しかし士族の名家のお嬢さんに間違いありませんので間もなく万事目出度く納まりました」
ここではセツをハーンの「奥様」としているが、ハーンが『ばけばけ』のヘブン同様、西田に身の回りの世話をしてくれる女性を探してくれるように依頼し、その際、執拗なほど士族の娘にこだわったことがわかる。
「妾」から「せつ氏」へ
その後、同年6月22日に、ハーンとセツは現在「小泉八雲旧居」として公開されている松江城内堀端の士族屋敷に引っ越した。このとき、『ばけばけ』で物乞いをする姿が衝撃的だった雨清水タエのモデル、すなわちセツの実母であるチエは、この士族屋敷の近くに小さな家を借りてもらい、真っ当な生活を再開させた。それに関することが西田の日記に書かれているが、そこにセツのことは「ヘルン氏の妾」と書かれ、同時期にハーンの私生活を報じた山陰新聞の記事にも「ヘルン氏の妾」とある。
ということは、やはり西田はハーンとセツの媒酌をしたのではなく、住み込みの女中としてセツをハーンに宛てがい、女中とは事実上の妾だった、と解釈するのが妥当だろう。
その後、ハーンと親友の西田は7月26日から、出雲大社がある杵築の稲佐の浜に出かけて滞在し、出雲大社にも参詣した。そこに2日遅れてセツが加わり、8月10日まで滞在している。そして、この滞在中にハーンとセツの関係は発展したようだ。『八雲の妻 小泉セツの生涯』にはこう記されている。「二週間、杵築に滞在する間に、二人の関係は、夫婦となったことを、そうしたセツの縁者たちに披露できるところまで熟するに至ったものと思われる」。
そう判断する根拠があった。8月4日には、一行は出雲大社宮司の千家家に招かれ、ハーンのために特別に行われた豊年踊りを見物し、8月7日には船で日御碕を訪れて、小野田男爵家の供応を受けている。そして、わずか10日前には日記にセツのことを「ヘルン氏ノ妾」と記していた西田が、この8月7日からは「せつ氏」と記し、以後もその表現で通すようになった。
最初は住み込み女中で、事実上の妾だったセツが、ここでハーンと心を通わせ、事実上の夫婦になったということだろう。西田は正しくは媒酌人ではない。最初はセツを女中としてハーンに宛てがっただけだった。しかし、ハーンとセツの2人と行動をともにしながら、2人の気持ちが通い合うための仲立ちをした。実際、2人の通訳をすることも多かったという。その意味では、やはり2人の「媒酌人」と呼ぶにふさわしいのではないだろうか。





