ネット動画で話題沸騰!「昭和の明治大学野球部」の真実をOB「広澤克実氏」が激白…御大こと「島岡吉郎監督」が部員の前で“刀”を出した瞬間

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口癖は「何とかせい!」

 広澤氏はヤクルトで共にプレーした古田氏だけでなく、多くのプロ野球選手OBから出演を依頼され、それぞれのYouTubeチャンネルで明大野球部の様々な爆笑エピソードを語っている。

 抱腹絶倒の思い出話は必ずと言っていいほど、明大野球部の名物監督として知られた故・島岡吉郎氏(1911〜1989)の強烈なキャラクターと結びつく。部員は誰もが「島岡監督」ではなく「御大」と呼んだ。

 1987年、島岡氏の功績をたたえ、等身大のブロンズ胸像が建てられることになった。そのことを報じた読売新聞の記事が島岡氏の略歴や、教え子の一人である星野仙一氏の談話を掲載している(註)。該当部分をご紹介しよう。

《島岡さんは、もともと明大の応援団長で、野球は全くの素人だった。それが「教育力」を買われ、明治中(旧制)野球部を経て、昭和二十七年に明大監督に就任。以後、短期間の交代はあったものの、三十五年にわたって指揮をとり、昨秋も含め十四度のリーグ優勝に導いた。大学選手権も五度制覇。野球の技術より、ガッツを強調する精神野球で、ピンチにもチャンスにも「何とかせい!」。このユニークなセリフ、島岡さんの“代名詞”としてすっかり有名になっている》

実は気づかいの人

《御大のスパルタぶりは有名だ。教え子の一人、星野仙一・現中日監督は「負けるという言葉が大嫌いな、とにかくきびしいおやじだった」と振り返る。島岡門下の優等生といわれた星野さんでさえ、KOを食らったあと、雨のマウンドに正座させられた。それでも次々に選手が慕ってくるのは、「怒る時も、冷たさはなかった。あとで必ず気をつかってくれた」(星野さん)から。現マネジャーの久保芳久君も「例えば、寒い中で紅白戦なんかやると、スコア係や審判をやった補欠に、あとでうどんをおごってくれたりするんです」と、その温かい一面を証言する》

 島岡氏のことは一日や二日では語り尽くせない広澤氏だが、最も強烈な記憶として残っているのは1年生の時に経験した、とある“事件”だったという。

「栃木の田舎から大都会の東京に出てきたばかりのことです。大学の新入生としても、野球部の新人部員としても右往左往していました。春のリーグ戦で法政戦があり、勝てば優勝が決まる一戦でした。ところが負けてしまったんです。もう1試合あったのですが、御大は激怒しました。野球部の寮に戻ると、大広間の畳で全部員が正座して御大を待ちます。2時間か、3時間か、とにかく長い時間正座で待たされ、遂に御大が現れました。全部員の前に立つと、手に白い袋のようなものを持っていたのです」

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