「日本では牛馬のごとく重労働が課され、国民に自由など皆無」…日本に潜入した北朝鮮スパイが“本国の教え”を疑って自首することも 「日本警察VS北朝鮮」昭和の諜報戦

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ある北朝鮮スパイの告白

 警視庁は昭和52年4月6日、北朝鮮スパイC(当時52)を外国人登録法違反で逮捕し、さらにCのスパイ活動を助けた補助工作員5人を犯人蔵匿などの疑いで逮捕、乱数表など多数の証拠品を押収した。Cの自供に基づく、スパイ工作の全貌は以下の通り(警察庁資料より)。

 Cは大正13年、朝鮮咸鏡北道で生まれた。子どものころ、家族とともに満州に移住。昭和15年、勉学のため、単身日本へやってきた。新聞配達をしながら明治大学附属中学校夜間部に通っていたが、中退して満州に戻り、同20年春、日本陸軍に入隊した。終戦後、北朝鮮に戻り、21年秋に朝鮮労働党に入党。翌年、朝鮮人民軍に入隊。幹部学校を経て中尉(政治将校)へ昇進を果たす。しかし、隠していた経歴(日本での生活)が露見し、24年に軍人の身分をはく奪され、教員に転身する。

 昭和44年6月、党中央委員会から呼び出しを受け「対外連絡部秘密工作員」として採用されることに。以来、家族にも任務を秘密にし、5か所の「招待所」と呼ばれるスパイ養成機関を転々とし、3年に及ぶスパイ教育を受けた。

〈北朝鮮から日本に派遣される秘密工作員は、主として終戦前後にわが国から北朝鮮に引き揚げた者で、しかも日本の旧制中学校卒業以上の学力があり、日本語が巧みで日本国内の事情にある程度精通している人物が選ばれているようである。戦後すでに三十余年を経ているので、このような条件にあてはまる人物はおおむね五十歳前後の男ということになる〉(警察庁警備局の資料より)

 Cのスパイ養成訓練は徹底しており、特に日本語教育では、在北朝鮮の日本人が講師を務め、日本の礼儀作法を書いたエチケット本に、NHK「新日本紀行」を4時間に編集した映像を見て生活様式や文化を学んだ。日本事情を学ぶため新聞、雑誌も読んだが、雑誌のグラビアに掲載された、何も着ていない女性の写真はすべて切り取られていたという。

 本国での研修に加え、ソ連、東ドイツ、フランス、カイロ、コンゴなどに旅行し、現地に旅行で来ている日本人の服装やあいさつ、食事をする時の態度などを観察した。日本上陸時が最も危険であることを集中的に学び、万が一、上陸時に警察の職務質問を受けた際は、ただちに無線機、乱数表が入ったリュックを海に投棄するとともに、

「私は朝鮮民主主義人民共和国の水産庁直轄の指導員であるが、風波のため漂流状態で、ようやくここまで来たので助けてください」

 と申告するよう指導を受けた。後は何を聞かれても「日本語は分からない」とジェスチャーし、黙秘せよ――。スパイ教育終了後、党中央委員会秘書代理や日本担当部長などの前で「国旗勲章」を受け、北朝鮮では最高級の料理で盛大な送別会を開いてもらった。

 昭和47年4月、北朝鮮の元山港から工作船に乗り、京都府の丹後半島から上陸する。

 連載第1回で紹介したスパイAもそうだが、北朝鮮スパイは本国で教育を受けている間、日本および日本人の生活について、このような“教育”を受ける。

「日本では資本家がのさばり、労働者は牛馬のように重労働を課せられ、住宅難で生活は苦しい。失業者がどんどん増え、若者の間では風紀が乱れ、麻薬中毒者が多い。また、官憲の弾圧が厳しく、国民には自由がまったくない」

 しかし、実際に日本で生活して、現実を目の当たりにする……最初のうちは「これは何かウラがある」と疑ってかかり、「信じたくない」という気持ちを常に持つように心がける。本国でのスパイ教育が体にしみ込んでいるからだ。

 しかし街を歩き、買い物をして、テレビや新聞を見て、近隣住民との触れ合いを重ねていくうちに、本国での教えが違うことがわかってくる。

 だが、Aは革命戦士としての自覚から、何度も強く自分自身を励まし、任務を遂行した。

 しかし、Cは違った。予定されていた工作はうまくいかず、日本国内での協力者との関係もうまくいかない。それでも本国からは無理難題を要求する指示が続く。北朝鮮に残してきた家族の安否も気になるが、それ以上にこんな生活にはもう耐えられないと、自ら警視庁に自首、これまでの経緯をすべて自供したのである。

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