逃がした魚は大きすぎた…“くじ運の悪さ”に泣いた球団の「ドラフト哀史」

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 10月23日にプロ野球ドラフト会議が開催される。今年は創価大の内野手・立石正広は、複数球団の競合必至といわれる。昨年も明大の内野手・宗山塁に5球団が競合し、楽天が当たりくじを引いた。一方で、毎年のように抽選を外しているくじ運の悪い球団も存在する。【久保田龍雄/ライター】

できればタイガースでやりたかった

 1980年代半ばから90年代にかけて、ドラフト1位の競合くじをことごとく外したのは、阪神だ。

 まず1985年、巨人が直前で指名を見送ったPL学園の主砲・清原和博を競合覚悟で1位指名したが、南海、日本ハム、中日、近鉄、西武と計6球団による抽選の末、西武が交渉権を手にした。

 ドラフト当日、巨人が自分を指名してくれると信じて疑わなかった清原は、意中の巨人がチームメイトの桑田真澄を単独1位指名したことを知ると、テレビに向かって、涙声で「阪神、引いてくれ。阪神や、阪神、引いてくれ」と叫んだそうだが、願いは叶わなかった。

 もし、清原が阪神に入団していたら、一塁は全盛期のバースがいたため、1年目から活躍できたかどうかは疑問だが、掛布雅之引退後に岡田彰布とともに虎の中軸を担っていたかもしれない。

 その後、阪神は86年に5球団競合の近藤真一(享栄)、87年に3球団競合の川島堅(東亜学園)を相次いで外し、89年、90年にはともに史上最多8球団が競合した野茂英雄(新日鉄堺)、小池秀郎の獲得を目指したが、8分の1という高倍率もあり、どちらも引き当てることはできなかった。

 そして、92年は阪神入りを熱望していた松井秀喜(星稜)の4球団競合の抽選にも外れ、「できればタイガースでやりたかった。気持ちの整理がまだつかない」と松井を意気消沈させている。

 もし野茂と松井が阪神に入団していれば、90年代以降の“暗黒時代”も違ったものになっていただろう。

失われた1年

 近年、くじ運が悪い球団といえば、巨人の名前が挙がる。

 2011年は、早くから原辰徳監督の甥・菅野智之(東海大)の1位指名を公言し、前年、巨人を逆指名した澤村拓一(中大)と同様に“一本釣り”に成功するかと思われた。

 ところが、ドラフト当日に日本ハムが突然参入したため、2球団による抽選となり、巨人は2分の1のくじを外してしまう。肉親の情を考慮して清武英利球団代表が代わりにくじを引いたが、「監督と伯父という立場の両方から、非常に残念」(原監督)という結果になった。

 あくまで巨人入りを熱望する菅野は、一浪の末、翌12年に単独1位指名で初志を貫徹したものの、“失われた1年”を考えると、その代償も決して小さくなかった。

 巨人はその後も、13年にロッテと競合した石川歩(東京ガス)、16年に5球団競合の田中正義(創価大)の抽選に敗れ、17年には7球団競合の清宮幸太郎(早稲田実)、ヤクルト、楽天と競合した外れ1位・村上宗隆(九州学院)を相次いで外してしまう。

 さらに18年に根尾昂(大阪桐蔭)、19年に奥川恭伸(星稜)、20年に佐藤輝明(近大)、21年に隅田知一郎(西日本工大)、昨年も金丸夢斗(関大)といずれもくじ運に恵まれず、「交渉権確定」を引き当てたのは、22年の浅野翔吾(高松商)と23年の西舘勇陽(中大)の2例だけという寂しい結果に。

 これも「たられば」の話になるが、もし村上と佐藤を引き当てていれば、今季は阪神の独走を許すこともなかったかもしれない。

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