死去から58年「吉田茂」が徹底した「親は親、子は子」 深夜帰宅を黙認された娘、外務省高官に父の素性を1年も黙っていた息子

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雪子夫人は「カトリックの教義みたいな方」

 またこうも続ける。

〈(正男氏のエピソードは)それだけ吉田さんが公私の別をわきまえた人で、子弟に対して「親は親、子は子」という生き方を貫いていたということかもしれない〉

 吉田氏の「親は親、子は子」という考えは、麻生太郎氏(85)の母で吉田氏の三女・麻生和子さん(1996年死去)についてのエピソードからもうかがえる。(以下、文中の「大磯」は吉田邸があった神奈川県大磯町)

〈麻生和子さんについては、一時期、“大磯の淀君”という名がつくほどの可愛がり方だった。大野伴睦氏(1964年死去)が、彼女に「大野さんは、バーバリズムね」との評価を受けたために、大臣のイスにつけなかったという伝説すらある。だが、このような風説も、事実は相当な誇張があったようである〉

 吉田氏の死去後、子供に対する吉田氏の姿勢を「英国流の個人主義」として評価する向きがあった。だが、親交のあった作家の今日出海氏(1984年死去)はそれを否定する。

〈「そんなのではない。あの人は士族の出。お母さんは幕府の儒学者、佐藤一斎の孫ではないか。ほかから持って来たものではなく、あの人の身に持って生まれついたものですよ」〉

徹底した「親は親、子は子」

 子供に対する厳しさは、雪子夫人のほうが上だったという声もある。三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎氏の孫で、児童養護施設「エリザベス・サンダース・ホーム」の創設者である沢田美喜さん(1980年死去)は、雪子夫人を「カトリックの教義みたいな方」と表現した。

〈「実に礼儀作法にきびしい、マジメな人でしたわね。(中略)茂さんに対するしつけも厳しかったわよ。いつだったか、吉田さんご自身からうかがったのだけれど、吉田さんが役所から帰ってきて、浴衣を着て晩酌でもと思ったら、奥さまにうやうやしく、『パパさまは、おハカマをおはきあそばせ』といわれて、とうとう浴衣の上に、ハカマをはいて食卓についたのだそうよ。武者修行の剣道家みたいだ、なんておっしゃってらした」〉

 子供に対する厳しさが雪子夫人に起因していたとしても、吉田氏の「親は親、子は子」という姿勢は徹底したものだったという。たとえば、女学生時代の麻生和子さんの場合。

〈友人のところで遊んで、真夜中に帰宅しても、吉田さんは一言も文句をいわなかったという。いまどきの話なら珍しくもないが、当時はまだ「夜に外を出歩く婦女子」が眉を顰められていた時代である。吉田さんの一種、放任主義とも呼ぶべきこの教育法は、実はわが子に対する絶対の信頼感に支えられていたのかもしれない〉

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 第2回【「死んだら世間がベタぼめなのに驚いた」 死去から58年「吉田茂」、初孫「麻生太郎」が27歳当時に明かした“偽らざる気持ち”】では、吉田氏の「親は親、子は子」という考えを如実に表すエピソードや、吉田氏の初孫である麻生太郎氏が若き日に語った言葉などを伝える。

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