死去から58年「吉田茂」が徹底した「親は親、子は子」 深夜帰宅を黙認された娘、外務省高官に父の素性を1年も黙っていた息子

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「父・吉田茂」の死を境に

 吉田茂氏が死去したのは、1967(昭和42)年10月20日のこと。享年89。外相、総理として戦後日本の基礎を築き、1951年(昭和26)9月8日に首席全権としてサンフランシスコ平和条約および米国との安全保障条約に署名。戦後初の「大勲位菊花章頸飾受」を受章し、ノーベル平和賞に3度推薦、総理経験者としては初の国葬……といった説明が野暮に思えるほどの有名政治家である。

 それだけに、生前はその一挙手一投足が注視され、さまざまな批判にさらされることもあった。そんな吉田氏の死去を受け、当時の「週刊新潮」はこう報じている。

〈「父・吉田茂」の死を境に、遺族たちはよりいっそうの名声と世間の注視を受ける立場に立った。遺族の立場からいえば、いや応なく、そういう立場に追い込まれたといえそうである〉(1967年11月4日号「吉田四姉弟の人生態度 名声と注視の中での生き方」より)

 強い個性でも知られた吉田氏は、雪子夫人(1941年死去)との間に5人の子(次女は夭逝)をもうけた。常に注目される父親の元で、子供たちはいったいどのように育ったのか。「週刊新潮」の過去記事で、まずは吉田家の子育て流儀や雪子夫人の素顔を紐解く。

(以下、引用部分はすべて「週刊新潮」1967年11月4日号「吉田四姉弟の人生態度 名声と注視の中での生き方」からの抜粋。一部の表記は現在に即したものに修正しています)

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つき合い始めて1年で「父は総理」と

 まずは〈ほとんど世間に知られていなかった〉という長女と次男について。長女の桜子さんは戦前に外務省の男性と結婚し、伴侶の死後は都内のカトリック系病院で奉仕生活を送ったという。

 学者肌だったという次男の正男氏(2005年死去)は、複数の言語をあやつるエンジニアとしてGHQや国連関係のポストに就き、大学教授も務めた。ある外務省の高官は〈連日のように顔を合わせていた〉というGHQ時代の正男氏について、こんなエピソードを披露している。

〈「ところが彼は、父親のことを一言もいわない。こちらは外務省の後輩として、吉田さんにも可愛がられていたのだが、その私も『吉田』という名前を彼の親父さんに結びつけたことはなかった。それが、つき合いはじめて1年してからだったと思う。なにかの話のついでに彼が『父は総理だもんだから……』といったんです」〉

 この高官氏は「からかわれた」と思うほどのショックを受けたというが、「週刊新潮」はこう続ける。

〈事実、人をからかうのが好きな父親の吉田氏なら、このぐらいのイタズラはやりかねない。だが、正男氏は、どちらかといえば母親の雪子夫人の生真面目な性格を受け継いでいる人だ。もちろん、イタズラでもなんでもなかった〉

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