「美智子さまイジメ」の真相は? 「香淳皇后」の知られざるお姿 「食事会で嫁を無視」「目の前を素通り」した本当の理由
10月9日、宮内庁が「香淳皇后実録」を公開した。1924年に昭和天皇(当時は皇太子)と結婚。上皇陛下はじめ2男5女を出産し、2000年に97歳で死去した香淳皇后のご生涯を記録した約264万字、3828ページにも及ぶ大著である。
【写真を見る】香淳皇后が「美智子さまを無視した」と報じられた、昭和天皇とご訪米時の羽田空港
公開の日の全国紙各紙は、初めて明らかになった戦時中の動向など、「実録」の資料的価値を評価する一方で、「(香淳皇后の)肉声や心情が伝わる記述は少ない」「表面的な書きぶりに終始している」との指摘も伝えた。例えば、息子である現・上皇陛下と美智子上皇后陛下の結婚決定を巡って、香淳皇后が「平民から(嫁に入る)とはけしからん」という主旨の訴えをしたのはよく知られた話だ。昭和天皇の侍従長による日記「入江相政日記」にそのように記されているのだが、今回の「実録」で宮内庁は「他人からの伝聞だ」として、それを記載しなかったのである。
「週刊新潮」では、香淳皇后が死去した2000年6月、関係者に取材し、その波乱万丈の生涯を伝えている。以下は、その再録である。果たして、史上初めて民間から皇室に嫁がれた美智子上皇陛下を、香淳皇后は「姑」としてどのように受けとめていたのか。従来、香淳皇后と美智子さまとの間には「確執」が伝えられてきたが、その真相とはいかなるものだったのか。巷間伝えられている「美智子さまいじめ」はあったのか。昭和天皇との知られざるご夫婦の関係などを伝えた【前編】に続き、【後編】では、美智子さまとの「嫁姑」関係について明かし、「実録」が記さなかった香淳皇后の「人間」としてのお姿を振り返ってみよう。
【前後編の後編】
(以下は、「週刊新潮」2000年6月29日号記事の一部を編集し、再録したものです。記事中の敬称は記事掲載当時のものです。文中の「皇太后」は「香淳皇后」、「天皇陛下」は現・上皇陛下、「美智子妃」は現・上皇后陛下のことを指します)
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美智子さまへの牽制
昭和天皇の后としての顔の一方、皇太后(=香淳皇后、以下同)さまにはもう一つの顔がある。姑としての顔である。いわゆる美智子妃(=現・上皇后陛下。以下同)との確執の問題だが、果たしてその実像はどの程度のものだったか。
「美智子さまと皇太后さまの間に確執があったのは、入江日記に書かれているように紛れもない事実です」
と、皇室ジャーナリストの河原敏明氏はこう語る。
「美智子妃への牽制は昭和33年11月に明仁親王(現・上皇陛下)とのご婚約が発表された時から、すでに始まっていましたが、その旗頭は常磐会会長の松平信子女史(昭和天皇の弟・秩父宮妃の母)と柳原白蓮女史(大正天皇の生母の姪)でした。皇族出身の皇太后さまも民間出身のお妃誕生には複雑な感情を抱いており、美智子さまがお妃教育を受ける時も、最初は皇居東御苑にある呉竹寮で行うことになっていたのに、それが三番町の宮内庁分室に変更されたのは、皇太后さまの強い反対によるものといわれています」
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