「美智子さまイジメ」の真相は? 「香淳皇后」の知られざるお姿 「食事会で嫁を無視」「目の前を素通り」した本当の理由
夕食の場で無視
ご成婚間近の昭和34年3月12日の入江日記には、
〈皇后さまが、今度の御慶事の馬車六頭、御大礼の時のご自身のも四頭だった、憤慨だとかおっしゃったとの事〉
という記述もある。
「つまり、皇太后さまは、ご自分のご婚儀の時は4頭立ての馬車だったのに、美智子妃のパレードが6頭立ての馬車なのは面白くないとお怒りになったというわけですね」
と河原氏は続けて言う。
「さらにこれは私がある侍従から直接聞いた話ですが、皇太子(現・上皇陛下)ご夫妻は結婚後、毎週1回、浩宮(現・今上天皇)さまを連れて御所を訪れ、両陛下とともに夕食を挟んで歓談されていた時期がありました。ところが、この時も皇太后さまは、美智子妃を無視して、全く相手にしなかった。そのため、美智子妃も病気を理由に参内を避けるようになり、昭和天皇も“美智子がそんなに来たくないなら、もう来なくていい”と言われて、結局、美智子妃は行かなくなってしまったのです」
羽田空港の光景
元朝日新聞編集委員の岸田英夫氏もこう話す。
「昭和42年11月13日の入江日記にも〈皇后さまは、一体どうお考えか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか〉と美智子妃が入江侍従に訴えたことが記されています。この時すでにご成婚から8年が経っているわけですが、こうした記述を読む限り、少なくともこの時点でも、まだ皇太后さまと美智子妃の間には、何らかのわだかまりがあったのだろうと思わざるを得ませんね」
それが公のことになったのが、昭和50年9月に昭和天皇ご夫妻がアメリカ訪問に旅立った羽田空港の光景である。各皇族が一列に並んで両陛下をお見送りするそのシーンはテレビで一部始終が放映されたが、皇太后さまは笑顔で見送る美智子妃に一瞥もくれず、その前を素通りした。
「しかし、これもまた人間の姿でしょう。嫁と姑の関係はどの世界でも難しい。まして皇室という特殊な閉鎖社会の中では本人ばかりでなく、周囲の思惑がそれを大きく増幅させてしまう。皇太后さまご自身も貞明皇后との葛藤がありました。この問題はいつの世も仕方のない面があるのだと思います」(河原氏)
板挟みとなって苦労
もっとも、菊のカーテンの向こう側では様々な伝説が生まれては、それが一人歩きしてしまうのもまた事実である。
「たとえば、美智子さまがご婚約発表の日に皇居へ上った時、手袋は本来、肘まで隠れる長いものをしなければならないのに、手首と肘の間までしかない短い手袋をしていたために“あの程度の心得もないようでは……”と皇太后さま周辺から批判されたといういわゆる『手袋事件』も実は誤解です。あの時は正田家の方で長い手袋を用意することができず、とりあえず短い手袋をして家を出たのですが、実際に御所では皇太后さまが長い手袋を用意して下さっていたんです」(宮内庁関係者)
また、皇太后さまと美智子さまの間に確執があったのは事実にせよ、そう仕向けたのは美智子妃の存在を快く思わない女官や旧勢力で、むしろ皇太后さまこそ、その板挟みとなって苦悩されていたのではないかという声もある。
前述の昭和50年の羽田空港でのシーンにしても、ベテラン皇室記者の一人はまた別の見方をする。
「実は、私はあの時、皇太后さまは、もう軽い“老い”が始まっていたのではないかと思っています。当時から、すでにもの忘れはかなり酷くなっていましたし、美智子さまに対しても、無視して通り過ぎたというよりも、ご挨拶されているのに、本当に気付かなかったのではないでしょうか」
この時の訪米は、皇太后さまにとって昭和46年の訪欧に続く2度目の外遊だった。米マスコミは“育ちの良さの良さ”と報じ、こぞってそのエンプレス・スマイル(皇后のほほえみ)を称賛した。
「しかし、このご訪米中、皇太后さまは車でアメリカの街並みを走っているとき“日本にも外国のような家がずいぶん建っているのね”とおっしゃったのです。どうやら、ご自分が日本にいらっしゃると錯覚されたようですが、いま振り返れば、あの頃から、老いの前兆が出始めていたように思われるのです......」(フジテレビ客員解説委員の神田利実氏)
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