「ドアの外まで夫婦喧嘩の声が…」 「実録」が書かなかった「香淳皇后」の知られざるお姿 「美貌の女官にヤキモチ、昭和天皇を睨みつけられ…」
10月9日、宮内庁が、香淳皇后の生涯を記録した「香淳皇后実録」を公開した。香淳皇后は昭和天皇の后で、上皇陛下の母であり、今上陛下にとっては祖母、愛子さまや佳子さま、悠仁さまには曾祖母に当たる。1924年に昭和天皇(当時は皇太子)と結婚。2男5女を出産し、2000年に97歳で死去。記録上確認できる最長寿の皇后である。
【写真を見る】香淳皇后が「美智子さまを無視した」と報じられた、昭和天皇とご訪米時の羽田空港
宮内庁は2008年から17年をかけ、約1500件の資料や元側近30人への聞き取りを基に「実録」を編纂した。公開の日の全国紙各紙は、初めて明らかになった戦時中の動向などの資料的価値を評価。将官や侍従武官などと面会した際の全容が判明したことなどを挙げ、「日本近現代史の重要資料」との見方も伝えている。一方で、「(香淳皇后の)肉声や心情が伝わる記述は少ない」「表面的な書きぶりに終始している」との指摘も掲載している。
確かに香淳皇后はその100年近いご生涯を通じ、天皇制とそれを巡る国民の意識が大きく変化する中、昭和天皇をお支えになられた。その間の、ご夫婦の関係とはどのようなものだったのか。また、史上初めて民間から皇室に嫁がれた美智子上皇陛下を、「姑」としてどのように受けとめたのか。そういった人間らしいお姿は、宮内庁がHPに掲載した、約264万字、3828ページにも及ぶ「実録」全文を見ても、ほとんど記されていないのである。
「週刊新潮」では、香淳皇后が死去した2000年6月、関係者に取材し、その波乱万丈のご生涯を辿っている。以下、それを再録し、「実録」が記さなかった香淳皇后の「人間」としてのお姿を振り返ってみよう。
【前後編の前編】
(以下は、「週刊新潮」2000年6月29日号記事の一部を編集し、再録したものです。記事中の敬称は記事掲載当時のものです。文中の「皇太后」は「香淳皇后」、「天皇陛下」は現・上皇陛下、「美智子妃」は現・上皇后陛下のことを指します)
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16歳と14歳の婚約
皇太后さま(=香淳皇后、以下同)は、日露戦争前夜の明治36年3月に久邇宮邦彦(くによし)王と俔子(ちかこ)妃の第一王女として東京・鳥居坂に生まれた。
皇族ではあったが、邦彦王は軍籍に入り、後に陸軍大将にまで昇進。俔子妃は、旧薩摩藩主の島津忠義公爵の第七女だが、明治8年に創立された久邇宮家は、質実剛健で決して裕福な宮家ではなかった。
東宮裕仁親王(昭和天皇)との婚約が発表されたのは大正7年1月のこと。白羽の矢を立てたのは、昭和天皇の母である貞明皇后だったが、当時、昭和天皇は16歳、皇太后さまは学習院女子部の中等科修了を目前にした14歳だった。
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