ドイツ語試験は白紙で提出、小6で驚くほど精巧な模型…「ノーベル賞」を同時受賞した“日本の研究者4人”若き日の秘話

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小6で驚くほど精巧なドイツ軍艦の模型

 国民学校時代の同級生の松岡和年氏は語る。

「彼はまるで貴公子のようでした。家柄だけじゃなく、下村君自身、とても品が良かった。物静かで、僕らがワーワー騒いでいても1人違うところで佇んでいました。外で一緒に遊ぶこともあったけど、1人で本を読んでいることが多かった」

 むろん学業優秀だったが、それをひけらかすことはしなかった。方言で話す同級生に交じって標準語の下村少年は、孤高を貫くタイプであったという。

「強烈に印象に残っているのは、小学6年の夏休みの自由工作で、彼が作ってきたドイツの軍艦。それが驚くほど精密で美しく、まるで市販品のようだった。当時の模型作りは、まず設計図を作り、木材から切り出すところから始まる。皆が作るのは日本の軍艦。僕らにとってドイツの軍艦なんて、少年雑誌の写真で見る程度。それにもかかわらず、彼は司令室や煙突、大砲の砲身に至るまで、本当に細かく作っていました」

 昨年、帰国した下村氏と再会した際に、松岡氏がその思い出を話すと、

「模型作りが大好きだった。当時は飛行機や船舶の設計者になりたかったんだよ」

 と応えていたという。

勉強できるだけで幸せだと腹をくくった

 その後、下村氏は、旧制佐世保中学から大阪市の住吉中学へ編入するも、戦況の悪化で再び長崎県へ疎開し、諫早中学を卒業。同地で原爆を体験する。

「本人も大学では工学を学び、飛行機の製造に関する仕事に就きたかったようです。でも、終戦直後で世の中はそれどころじゃなかった。亡くなったり家を失ったりした同級生が多く、生きているだけで有難いという状況です。長崎大学薬学部(当時は長崎医科大学附属薬学専門部)に入学したのは、正直、本人の希望の道ではありませんでしたが、選択肢が他になかった。入学してしまった以上は仕方ない、むしろ勉強できるだけで幸せだと腹をくくったそうです」(明美さん)

 明美さんは、大学の後輩だった。それから二人三脚の学究生活が始まった。今も寡黙に研究を続ける下村氏の姿は、祖母の武士道という家庭教育の賜物であるのだろう。

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 父はわざとちょっと上の学年の本を与えていたのかもしれません――。第1回【「ノーベル賞」を同時受賞した“日本の研究者4人”若き日の秘話 「神様じゃないかと思った」「従兄弟同士で切磋琢磨」】では南部陽一郎氏と小林誠氏について、ご本人や同級生、親族らの貴重な証言をお届けする。

デイリー新潮編集部

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