【べらぼう】松平定信の統制で財産を半分没収 「見せしめ」にされた蔦重の致命的な油断

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享保の改革の規制をさらに強化

 京伝の自伝『山東京伝一代記』には、京伝自身のほか、蔦重、行事、京伝の父のそれぞれについて町奉行所が作成した調書の内容が記されている。鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社新書)から、それに関する部分を引用する。

「調書は、(中略)この三作が『不埒の読本』であるとする。『山東京伝一代記』は (中略)洒落本を、制禁を侵して出版したことが不埒であったとする」

 京伝作の3作がなにに照らしたとき「不埒」と認定されたかというと、刊行された前年の寛政2年(1790)に出された町触れだった。『べらぼう』の第38回で蔦重らが対策を練っていたのも、この町触れに対してだった。これについて、以下に説明しよう。

 松平定信が寛政の改革で出版への規制を強める前にも、規制はあった。8代将軍吉宗による享保の改革の一環として、享保7年(1722)に出版に関する町触れが出された。その内容は主として、徳川家についての記述を禁止し、好色本は絶版とし、それらを出版した者は処罰する、というものだった(寅年の禁令)。

 以後、この町触れが書物の流通と出版に関する基本的なガイドラインとなった。だが、時が経つにつれ有名無実化し、とくに田沼意次の時代には事実上、出版への規制はかなり緩くなっていた。このため寛政2年(1790)5月、享保7年の町触れを補うかたちで、あらためて出版が規制されたのである。

同業者組合を認める代わりに

 その内容は、書物や草双紙(大衆向けの挿絵入りの娯楽本で、黄表紙などを含む)の新規出版を禁止し、異説を書いた本の出版を禁止し、洒落本(遊廓での女郎と客のやりとりなどを描いた小説)を含む好色本を禁止し、古い時代を装ってなにかを揶揄するのを禁止し、時事的な内容を1枚の絵にして刷るのを禁止する――というもの。まさに無い無い尽くしの厳しい内容だった。

 ただし、この町触れは書物問屋(歴史書や辞書など固い内容の本をあつかう出版社)の「仲間」に向けて出された。というのも、書物問屋に関しては、享保の町触れ(寅年の禁令)が出された際に、同業者組合である「仲間」の結成が許され、以来、書物問屋仲間が存在していたからだった。しかし、草双紙や好色本、時事的な内容の刷り物などを刊行するのは主として地本問屋で、書物問屋仲間に伝えたところで、取り締まりを徹底するのは困難だった。

 そこで、地本問屋が「仲間」を結成することを認め、その仲間をとおして出版を統制しよう、ということになったのである。

 寛政2年(1790)10月、地本問屋仲間に伝えられた町触れは、享保年間の町触れを再確認させるとともに、風紀を乱す本が刊行されないように、1つの出版物に対して仲間内で「行事」を2人ずつ定め、内容をチェックさせることにした。対象になったのは地本問屋仲間に加わった20人で、彼らは奉行所に、町触れを順守する旨の請書を提出した。

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