【べらぼう】松平定信の統制で財産を半分没収 「見せしめ」にされた蔦重の致命的な油断

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出版禁止は免れたはずが

 ここのところNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、松平定信(井上祐貴)による統制に、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)ら出版界が困惑し、抗う姿が描かれている。すでに定信の政治を風刺する黄表紙を書いた責任を問われ、朋誠堂喜三二(尾身としのり)は戯作の筆を折り、恋川春町(岡山天音)は腹を切った。

 だが、その後も出版の条件は、ますます厳しくなるばかりだった。第38回「地本問屋仲間事之始」(10月5日放送)では、書物や草双紙などの新規出版には奉行所の許可が必要になり、みだらな内容を書くのも、時事問題を1枚の絵にすることも禁じれ、原因をつくった蔦重が、出版業界関係者を集めた会合で、平身低頭する場面が描かれた。

 だが、その後、蔦重らはあの手この手を講じた。たとえば、火付盗賊改の長谷川平蔵(中村隼人)を吉原で接待し、定信に上手に進言させたりした。その結果、地本問屋(娯楽的な本を出版し販売する出版社)が株仲間をつくることが許され、仲間のあいだで「行事」をもうけて、禁止された内容の出版物が刊行されることがないように、自主的にチェックすることになった。

 もちろん、以前よりは規制が厳しくなり、「行事」がチェックするシステムも町奉行所の管轄下に置かれるので、やっかいではあるのだが、出版が禁止されるよりはマシである。蔦重は第39回「白河の清きに住みかね身上半減」(10月12日放送)で、山東京伝(古川雄大)作の洒落本3冊を刊行する。ところが、奉行所の与力と同心が現れ、蔦重と京伝は牢屋敷に連行されてしまうのである。

蔦重は身上半減、京伝は手鎖50日

 処分の対象となったのは、寛政3年(1791)正月に蔦重の耕書堂が刊行した京伝作の『仕懸文庫』『錦之裏』『娼妓絹籭』の3冊。しかし、『仕懸文庫』は深川の岡場所を描いてはいるものの、鎌倉時代の話に置き換えられている。『錦之裏』と『娼妓絹籭』は、舞台は吉原だが、筋立ても登場人物も浄瑠璃になぞらえてある。しかも、それぞれ「教訓読本」と題されていて、なにかと教訓が押しつけられる定信の治世に合わせてあった。

 結局、これらの3作は出版を規制する町触れに違反しているという嫌疑がかけられ、同年3月に北町奉行所が判決を下した。それによって京伝作の3作は、みだらな内容で風紀を乱すものとして絶版とされ、京伝は手鎖50日に処された。これは鉄製のひょうたん型の手錠で両手首を拘束し、そのままの状態で50日間、自宅で謹慎させるという刑だった。

 また、蔦重と2人の行事(馬喰町3丁目の五兵衛店の吉兵衛と芝神明門前町の三郎兵衛店の新右衛門)は、身上に応じた重過料という罰金刑が科され、蔦重は身上すなわち財産の約半分を没収されてしまった。ほかに京伝の父の伝左衛門も、監督不行き届きで「急度叱り置き」となった。

 すでに喜三二や春町という人気作家を失い、蔦重にとっては経営的な面でも待ったなしだったと思われる。折しも寛政2年(1790)、京伝が大和田安右衛門のもとから出した黄表紙『心学早染草』は空前の大ヒットを記録していた。これは「べらぼう」でも紹介された、人間のなかで善魂と悪魂が争い、悪魂が教化されるという話だった。そこで蔦重は京伝に賭けたわけだが、厳しい結果を招いてしまう。

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