2位でも退任「横浜・三浦大輔監督」と“破壊王”の絆…球界屈指のプロレス通が“恩人”に捧げた劇的勝利

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 横浜DeNAベイスターズ・三浦大輔監督(51)の今季限りでの退任が発表された。

 DeNAと言えば、昨季はペナント3位からCSシリーズを勝ち抜き日本一になったのが記憶に新しい(※3位からの日本一はセ・リーグ球団では初めて)。今年は球団のスローガンも「横浜奪首」と改新し、ペナントも制しての日本一を狙っていたが、2位に終わった。恥じることなき成績に思えるが、投手としての現役時代、「通算199勝で終わってもいいから、それよりも優勝したい」が口癖だっただけに、監督としても思うところがあったようだ。

 しかしまだ、連続日本一の可能性は残っている。実はプロレス観戦が大の趣味の指揮官。ご近所仲間だった、今は亡き大物レスラーとの交流や秘話を軸に、捲土重来にエールを送りたい(文中敬称略)。

東京ドーム大会で入場

 1973年生まれの三浦がプロレス好きになったのは、同世代のご多分に漏れず、初代タイガーマスクからだった。「人間に、こんな動きが出来るのか」と驚いたという。

 2022年10月1日、午前中にアントニオ猪木の訃報が入ると、午後の横浜スタジアムでの全体練習では、「炎のファイター」(猪木の入場曲)をBGMにかけて哀悼した。ファンとしての熱は途切れることなく、今年1月4日の新日本プロレスの東京ドーム大会はもちろん、昨年11月22日、“地元”・横浜武道館でおこなわれた新日プロの大会も、リングサイド観戦している。

 かように“新日本推し”感のある三浦だが、ファンとしてその存在がクローズアップされたのが、1998年1月4日の東京ドーム大会。セミファイナルの蝶野正洋の試合で、一緒に入場したのである。

 蝶野との出会いは、前年9月23日の日本武道館大会だった。この年の2月より、蝶野はスタイリッシュなヒール、「nWo軍団」日本支部を稼働。オシャレなTシャツも含め、”nWoブーム”を興していたのである。そんなタイミングだったため、三浦が同じくプロレス好きの鈴木尚典(現ベイスターズ野手コーチ)と控室に挨拶に行くと、蝶野からTシャツをプレゼントされ、“nWo軍団”入りとなったのだった。如才ない蝶野は10月6日の横浜スタジアムでのベイスターズの試合にも駆け付け、他のベイ選手たちはもちろん、退任する大矢明彦監督にも「nWoTシャツ」を贈っている。この年のベイスターズはペナント2位だったが、nWoも同じ様に勢いに乗っていた。

 東京ドーム大会の登場も、勢いによるものだった。同日の試合前に、パーティー形式の「プロレス大賞」授賞式があり、三浦と鈴木が出席すると、蝶野から花道を歩くことを提案され、快諾したのである。2人はそのままセコンドにもつき、蝶野は快勝。ここで、ハプニングが起こった。負けた越中詩郎が、腹いせか、退場時に三浦の右太もも裏を蹴ったのである。因みに越中は全試合、録画して楽しむほどの阪神ファンである。

 同月には鈴木も含め、nWo勢と合同トレーニング(1月23日)。武藤敬司とも親交が出来、この年、ベイスターズが38年ぶりの優勝を果たすと、その直前、三浦から武藤に、電話があったという。

「武藤さん、俺、ビールかけでグレート・ムタになりたいんですよ。ペイントを貸して頂けませんか?」

 結果、当時のムタのペイントである、顔を黒く塗った三浦と鈴木が、ビールかけではしゃぐ姿が見られた。なお、「ペイント完成だけでも20分かかるので、(ムタの吐く)毒霧は用意出来なかった」とは、鈴木尚典の談である。

 以降、三浦のプロレス好きは完全に知られるところとなり、自らのラジオ番組で三沢光晴と共演したこともあれば、小橋建太とも食事をする仲に。2004年1月、沖縄で自主トレを行った際は、同地で興行のあった珍客がアポ無しで来襲した。新日本プロレスの中でメンバー増強を狙っていたヒール軍団「魔界倶楽部」総裁、星野勘太郎が三浦にメンバー入りを強要したのだ。異論を挟む間もなく、当時の背番号をもじり、「魔界18号」とされた三浦であった。

 そんな三浦自身が語るプロレスの魅力とは――。

〈個性がある。選手個々の得意技やアピール方法も違う〉(「週刊宝石」1999年12月9日号)

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