2位でも退任「横浜・三浦大輔監督」と“破壊王”の絆…球界屈指のプロレス通が“恩人”に捧げた劇的勝利

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「横浜に残って、良かったです!」

 2005年7月11日、橋本真也は、脳幹出血で、40歳の短い人生を閉じた。

 2日後の7月13日、三浦はホーム、横浜スタジアムで登板を迎える。実は前月の9日から勝ち星がなく、ましてや7月は、4年間勝っていない、自分にとっては鬼門の月であった。マウンドに向かう三浦に、普段とは違う登場曲が流れた。それは「爆勝宣言」だった。

 鬼気迫る力投。終わってみれば広島相手に、2安打無四球の完封勝利。実に自身でも3年ぶりの完封劇だった。お立ち台で感極まる姿は語り草となっている。

「無我夢中でした。橋本さんは、本当にお世話になった方なんで……気持ちを込めて投げました。逃げのピッチングはしたくなかった。橋本さんに届けられたと思う。ゆっくり休んでほしい」

 試合後のコメントでは、熱投の更なる真意を明かした。それは4日後の7月17日におこなわれる、橋本の告別式を意識したものだった。

「絶対に棺にウイニングボールを入れるんだという気持ちで投げました。橋本さんの、負けても復活して向かっていく姿は、僕自身、凄く勉強になりました」

 この年、三浦は、最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを初獲得。チームも最下位から、3位に浮上した。

 一度、ベイスターズを出ようと思ったことがある。2008年オフにFA宣言。出身地の奈良に近く、この年僅差で2位に終わった阪神行きが濃厚とされていた。しかし、ファン感謝デーで残留を熱望するファンの姿と、自分の人生を振り返り、こう結論を出した。

「天理とやった時からそうだった。強いものに立ち向かい、それを倒すことこそ、自分のやりたいこと」

 横浜に残留し、2012年には通算150勝を達成。お立ち台で伝説の名文句を口にしている。

「横浜に残って、良かったです!」

 2軍暮らしもあり、辞めようと思ったこともあった。しかし、その時、1軍の試合を観て、考えを改めたという。

「自分は2軍にいるのに、1軍の球場で僕の背番号ユニフォームを着て応援してくれている人が何人もいてくれた……。必ずあそこに戻らなきゃという気持ちでした」

 それは、小川直也に負けた橋本が、ファンからの100万羽の折鶴を目の当たりにし復帰を決意した姿を思わせたと言ったら、センチに過ぎるだろうか。

 2016年9月29日に現役を引退。本人は最後の球を投げる時、「涙が出た」というが、ファンばかりでなく、ビールの売り子まで泣いていた。引退の胴上げ回数は、まさかの18回。もちろん背番号と一緒であった。

 横浜一筋のプロ野球生活をいったんは終える“ハマの番長”。だが、強い者を倒すチャンスは、今一度残っている。有終の美に期待したい。

 天国の橋本も、それを願っているはずだ。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。10月8日には約1年ぶりの新著『10.9 プロレスのいちばん熱い日 新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面戦争 30年目の真実』(standards)が発売される。

デイリー新潮編集部

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