2位でも退任「横浜・三浦大輔監督」と“破壊王”の絆…球界屈指のプロレス通が“恩人”に捧げた劇的勝利

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破壊王との邂逅

 奈良・高田商を経て、1992年にドラフト6位で入団した三浦。当初は球も速くなく、同期や先輩たちの実力を目の当たりにし、自身をアピールすることに躍起だった。球団のパーティーに出る際のスーツは決められていたが、少しでも目立とうと、靴下を赤くした。

 2年目からは髪型が自由になり、今に続く代名詞のリーゼントに。子どもの頃、漫画「ビー・バップ・ハイスクール」に憧れたことと、敬愛する矢沢永吉、エルビス・プレスリーの影響からだった。やるなら徹底的にと、自分のバットは白のテーピングでグルグル巻きに。“永ちゃん”のマイクスタンドを模したものであった。専用のスパイクの先には、片側にリーゼント、逆側には襟足の意匠を入れた。見た目からと言えばそれまでだが、必死だったのだ。

 入団2年目の1993年に初勝利をあげる。ほどなく知り合ったのが、既に新日本プロレスのトップの一角だった選手であった破壊王・橋本真也である。聞くと、お互いの家が車で5分という、ご近所だったという。すぐに家族ぐるみの交際が始まった。

 自称、“プロの料理人の腕前”という橋本の手料理に舌鼓を打ったこともあれば、出された肉の量が多過ぎ、残してしまったことも。多摩川でキャッチボールをしたこともある。愛娘が出来、見せに行くと、橋本が揺りカゴから落としてしまい、床をコロコロと転がったこともあった(※幸い大過なく、長女は現在、競馬記者として活躍している)。先述のnWo勢との日本武道館の控室での初遭遇も、実はもともと橋本に挨拶する一環で立ち寄ったものだった。

 1995年から、念願のローテーション入り。既にその時期、8歳年上の橋本は、入場テーマ曲の「爆勝宣言」宜しく、当時のIWGPヘビー級王座の歴代最多防衛記録(9回)を達成していた。もちろんそれ以前には、トニー・ホーム相手の異種格闘技戦の連敗や、強豪、天龍源一郎相手の連敗もあった。その模様も観て来たからだろう。三浦が言う、プロレスのもう一つの魅力が、以下である。

〈1試合観ただけじゃ分からないドラマがある〉(前出『週刊宝石』)

 三浦自身の野球人生も、そんなドラマの繰り返しだった。

 父の勧めで野球を始めたが、高校1年の時、野球部どころか、学校の授業自体もフェイドアウトしてしまう。心配した校長が三浦の自宅で待っていても、帰って来なかった。野球部は時には2桁に満たない部員数だったし、遊びたい盛りだったのだ。

 ふてくされて部員の前で「辞めます」と言うと、監督の拳が飛んで来た。帰路につく三浦を仲間たちが追い、部に戻るよう、必死に説得した。驚いたことに、皆、泣いていたという。復帰後のマラソン大会で、家に忘れた制服のネクタイを取りに行って戻ると、大騒ぎになっていた。「三浦はまた逃げ出してしまったのではないか」と、皆が心配していたのだ。監督にこう諭されたのが忘れられない。

「信頼は築くのに時間がかかるが、壊れるのは一瞬なんだぞ」

 心を入れ替え、エースとして高校3年時、春と夏の県大会で決勝まで進む。甲子園常連の天理に敗れたが、夏の決勝では12三振を奪い、スカウトの目に留まった。当時のドラフト中継は地上波のみでしかも上位選手しか流れず、三浦は、校長室にかかって来た電話で6位指名を知った。教師たちが拍手で讃え、「取材が来るから」と、控室まで行ってみると、記者は1人だけ。取材というより、ほとんど対談だった。

 上述のように1998年にベイスターズは優勝したが、2002年から04年まで3年連続で最下位に。激高した観客から物が投げ込まれ、試合が中断し、選手たちでそれを拾いに行ったのが忘れられない。その翌年だった。突然の悲報が入ったのは。

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