「浜田雅功さんも“俳句なんてつまんねー”と思っていたはず」 56歳でブレイクした夏井先生が明かす、俳句に捧げた人生

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60代でも若手と言われていた俳句界

 夏井さんが気になったのは俳句結社で進む高齢化である。当時、60代でも若手と言われていたのだ。

「こんな面白い俳句を廃れさせてはいかん、元教員という立場で俳句の種をまく活動をさせていただこうと。俳句は高尚なものではなくて、感じたまま表現すれば誰でも作れることを伝えたかったのです」

 その志を後押ししたのは、夏井さんが住む「俳句の都・松山」と「若さ」だった。

「句会に行っても若いから目立ったんです。珍しいからメディアにも知られるようになって、俳句の都のテレビ局ですから俳句に関係した番組を作っていて、それに出ないかとか、新聞でコラムを書かないかと声がかかるようになりました」

 1991年に始まったNHK松山放送局制作の「俳句王国」もその一つ。金子兜太ほか大御所とたびたび共演し、後継の公開番組「俳句王国がゆく」では主宰に。

 さらにカルチャーセンターの講師にも誘われる。最初は初心者コースを担当していたが、自分の刺激になると思って「ライバル俳人養成講座」を新設したら、同世代、県外からも受講者が来るようになった。

子ども2人を俳句の稼ぎで養うことに

 97年には、地元の名門校・愛光中学校で特別授業を行い、その形式を発展させた「句会ライブ」がライフワークになる。作句方法のレクチャーをした後生徒に俳句を作ってもらい、その中から秀句を数作選んでみんなで解釈や感想を言い合いながら鑑賞を深める形が整っていった。

「句会ライブは、コミュニケーションの演習だ」

 そう感じた夏井さんは、全国の学校長が集う会が松山で開かれた際に登壇し、句会ライブの魅力を熱弁した。すると全国の学校から句会ライブの依頼が急増。また、全国の高校生が松山に集まり、俳句の創作力と鑑賞力を競う「俳句甲子園」の立ち上げにも関わる。

 精力的に活動する中で2001年、離婚を経験する。子ども2人を養っていかねばならない。その頃、俳句は夏井さんの生業になってはいたが、それにしても当時、俳句だけで生計が立てられるのは一握りだった。

「よくも無謀なとは思います。でも俳句でお金を頂くのであれば、引き続き俳句のお役に立つ仕事をしないと、(松尾)芭蕉様にも(与謝)蕪村様にも申し訳がたたないと思いました」

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