【べらぼう】生田斗真「一橋治済」を怒らせた「松平定信」 堅物が絶対受け入れなかった決定打

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命取りになった朝廷への断固たる措置

 定信を説得できなかった関白鷹司輔平は事実上解任され、光格天皇に従順な一条輝良が関白になった。続いて武家伝奏の久我信通も解任され、幕府に反感をもつ正親町公明に替わった。そのうえで朝廷では、関白、議奏、武家伝奏以外の41名の公家の意見を聞く「勅問」が行われ、大半が尊号宣下賛成した。

 これを受け、朝廷は寛政4年(1792)正月、あらためて幕府に尊号宣下を求め、定信がふたたび拒否すると、同年11月、幕府を無視して宣下を強行しようとした。

 ここで定信は、ついに強硬手段に出た。議奏の中山愛親と武家伝奏の正親町公明を江戸に呼び出し、寛政5年(1793)2月、厳しい尋問を行ったうえで両名とも解任してしまった。さらに前者には閉門、後者には逼塞まで申しつけた。

 つまり、定信は朝廷との関係を完全にこじらせたのだが、一方的に朝廷を抑え込んだのなら、自分の身に影響はなかったかもしれない。しかし、定信の一連の姿勢は、将軍家斉の実父である一橋治済にとって、都合が悪いものだったのである。

家斉父子と決定的に対立した理由

 先述したように、『べらぼう』でも一橋治済は、この尊号宣下問題について定信に「あれは認めてもよいと思うがの」と発言した。というのも、尊号宣下は治済にとって、自分の問題だったのである。

 治済は閑院宮典仁親王と共通点が多かった。治済は将軍になっていないが、その長男は9歳で将軍家治の養子になり、15歳で11代将軍家斉になった。典仁親王も天皇にはなっていないが、六男が9歳で後桃園天皇の養子になり、翌年、即位して光格天皇になった。

 血筋の点でも、治済は8代将軍吉宗の孫ではあるが、吉宗の三男が創設した一橋家の当主で、直系ではなく傍系である。同様に閑院宮家も、18世紀はじめにできた新しい親王家で傍系だった。

 そして偶然なのか、それとも朝廷の真似をしたのかわからないが、光格天皇が実父に「太上天皇」の尊号をあたえるように求めたのと同じ天明8年(1788)、将軍家斉もまた、実父の治済に「大御所」の尊号をあたえるように定信に求めたのである。同時に、江戸城内堀の外にあった一橋家の屋敷が手狭になったので、内堀の内側の二の丸か三の丸に移りたいという要望も、家斉と治済から出された。

 しかし、定信は両方の要求を却下した。屋敷地に関しては早々に決着したが、治済の大御所就任問題は尾を引いた。しかし、定信はついに首を縦に振らなかった。天皇に示した態度を、徳川家に対しても貫いた。

 こうして家斉および治済と対立し、それが表面化した挙句、寛政5年(1793)7月23日に、定信は将軍補佐役および老中職を罷免されてしまうのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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