【べらぼう】生田斗真「一橋治済」を怒らせた「松平定信」 堅物が絶対受け入れなかった決定打
天皇に押し切られたがゆえに
きっかけは京都の大火だった。定信が老中首座に就いた翌年の天明8年(1788)正月、京都で応仁の乱以来という大火が発生し、市街の8割が焼け野原になった。禁裏すなわち天皇の御所も、上皇の仙洞御所も、公家の屋敷の大半も焼け落ち、再建が急がれた。同年3月、将軍補佐も兼任することになった定信は、御所の造営総奉行となって5月に上京し、関白の鷹司輔平と交渉した。この協議が難航するのである。
御所は幕府の責任で再建しなければならない。定信は、焼失前と同じものを再建すると請け負った。しかし、光格天皇の考えは違った。これまでの御所は狭かったので、紫宸殿と清涼殿を平安時代の規模で建てるように、幕府に強く要求したのだ。
定信は、財政難の幕府にはその規模の造営は困難であり、諸大名にも負担はさせるが、その規模が大きくなれば領民から取り上げるしかないので、人民を苦しめることになる、と主張。しかし、鷹司輔平から定信の意向を聞いた天皇は断固拒否し、あくまでも平安時代に復古する造営を望み、ついには定信も押し切られてしまった。
結局、御所は寛政元年(1789)、光格天皇の意向に沿って着工され、同2年(1790)11月に完成した。しかし、定信はこの苦い経験を経て、朝廷の要求には厳しく向き合うこととし、京都所司代や京都町奉行にも、今後は朝廷の要求に応じてはならない旨を指示した。
そこに光格天皇から寄せられたのが、閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号をあたえたい、という要求だったのである。
「道理に合わない」を理由に拒否
第119代光格天皇は傍系の出身だった。先代の後桃園天皇には皇子がおらず、閑院宮典仁親王の第6皇子が、わずか9歳で即位した。それが光格天皇だった。このため閑院宮典仁親王は、天皇の実父であるにもかかわらず朝廷における席次は、「禁中並公家諸法度」の取り決めで、三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より下に位置づけられていた。光格天皇はこの状況に耐えられず、実父に「太上天皇」の尊号を宣下するという方法を考えついた。
太上天皇になれば、すなわち上皇だから、席次は天皇の次になる。光格天皇は京都の大火の直後である天明8年(1788)4月にはすでに、議奏(勅命を公卿以下に伝える役職)の中山愛親に、天皇の実父に尊号をあたえた先例を書き出していた。そして寛政元年(1789)2月には、武家伝奏(朝廷と武家のあいだの連絡役)の久我信通が、京都所司代の大田資愛に尊号宣下を認めるようにと、正式に申し入れた。
だが、定信は、天皇になっていない親王に「太上天皇」の尊号を宣下するのは、道理に合わないし、挙げられている先例も混乱期における特殊な事例だとして拒んだ。閑院宮典仁親王は家禄が1,000石だが、上皇になると7,000石に増やさなければならないという点も、定信には引っかかったようだ。
その後、朝廷側は寛政3年(1791)に少し譲歩し、「太上天皇」の尊号にこだわらず、太上天皇の「格」を求めることにしたが、定信はそれも拒否。その後は、朝廷と幕府のあいだはかなりこじれてしまう。
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