不遇時代を経て稀代の名優…「大滝秀治」死去から13年 「努力の人」が勝新太郎、小松方正、二谷英明らと指した将棋
大恩人は脚本家の倉本聰さん
若かりし頃の大滝さんはどんな役者だったのか。
「まさに大根役者でねえ。裕次郎の映画に出ていた頃の彼には目立つ役は一つも来なかったはずだよ。見栄えはあまり良くないし、声だってあの頃は個性のあるものじゃなかった」
と言うのは、映画評論家の白井佳夫氏。
「しかし、そんな役者が、時代が変わって使われるようになった。二枚目より個性のある脇役が主役として出てきた時代です。川谷拓三、田中邦衛もそうだが、大滝さんもその列に加わった。脚本家の倉本聰さんこそが大滝さんの大恩人です」
倉本聰脚本のテレビドラマ・シリーズ「うちのホンカン」(TBS系列)で、大滝さんは主役の駐在所巡査を演じ、その名は全国区になった。番組のスタートは1975年。大滝さんは49歳になっていた。
「本当に努力の人だった。しかも、年輪を重ねるごとにどんどん大きくなっていきました。かつて、滝沢修がやっていた舞台『炎の人』を昔、劇団で劣等生扱いされていた大滝さんが演じているんだから、すごいことですよ。昔から“天才肌の役者は残れず、努力家が長持ちする”と言われてきたこの業界で、その典型が大滝さんですが、さすがにここまで来るとは思いませんでしたね」(白井氏)
不遇時代を耐え抜き、名優と呼ばれるまでになった人だったのである。
(以上、「週刊新潮」2012年10月18日号「名優『大滝秀治』逝去でわかった かくも永き不遇時代」より)
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「大滝さんといえば」の趣味
先の記事で白井佳夫さんが語った「努力の人」という人となりは、大滝さんの趣味からも伝わることだろう。将棋である。かつて「週刊新潮」で明かしたところによると「暇さえあれば将棋ばかり指しているほど好きになった」きっかけは、勝プロダクション製作「痛快!河内山宗俊」(1975~1976年、フジテレビ系)へのレギュラー出演に伴う京都通いだった。
〈勝新太郎さんは無類の将棋好きだった。さっそく私をつかまえると、「どう?」と来た。以後、番組終了まで500番以上指した。勝さんは棒銀を得意としたが、それをやられるとたちまち私は負けた。で、「棒銀をしないから頼む」ということになった。そうはいっても、やはりいつのまにやら盤上は棒銀となり、私はたった5回しか勝てなかった〉(「週刊新潮」1982年4月1日号「レジャー」欄「将棋・大滝秀治」、以下同)
大滝さんが将棋を通じて見た人気俳優たちの姿は、非常に興味深い。「4、5手目にはこちらの戦意をまったく喪失させるほど」強いという森本レオさん。強いと噂されていた小松方正さんとはロケ先の北海道で1番だけ指したが、「3段というふれ込みだったのに、なんと私が勝ってしまった」。以来、大滝さんは「貴重な勝ちに傷をつけたくない」と、誘いの電話から逃げ続けたという。
「唯一の将棋の内弟子」は二谷英明さん
〈近くに住んでいる花沢徳衛さんとはひと月に1回、お互いの休みが合う日に朝の10時から夜中の12時まで食事もそこそこに、80番から90番指す。2人の間には、お互い将棋の本を読んでひそかに勉強しないこと、というルールがあるが、どうも時々彼は将棋の本を読んでいるらしい。突如として、新しい手が盤上に現れるのがその証拠だ。といっても、私にしたって、こっそり本を読むこともあるのだから、文句はいえない。彼には将棋では負けないが、口では負けてしまう〉
「特捜最前線」(1977~1987年、テレビ朝日系)で共演した二谷英明さんは、「唯一の将棋の内弟子」だった。大滝さんが将棋の面白さを教え込み、5年間でなんと200番ほど指したという。
〈しかし、師弟ともに勉強しないので、いつも同じ詰みで終わってしまう。彼は非常に礼儀正しく、師である私に「どうぞ」と先手を譲り、私もおかしいなと思いつつ、なんとなく先手を打ってしまうのだが、この礼儀正しさに負けて2敗を喫した〉
将棋盤を前にした大滝さんの姿がありありと浮かぶエピソードの数々。会う人ごとに「将棋は面白い」と話し、「プロが年間50番指すところを私は1日でそれ以上」指していた。真面目で努力家の大滝さんには、まさにぴったりの趣味だった。
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