世界陸上“引退”の織田裕二の「暑苦しさ」はなぜ視聴者を引きつけたのか “織田裕二劇場”終焉の背景には「アスリートのエンタメ化」が

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天然の熱血・松岡修造と「織田裕二劇場」の違い 暑苦しさの意味の反転

 同じ「暑苦しい男」として思い出されるのが松岡修造さんだ。ただ彼の場合、元トップアスリートとしての知識と経験が裏付けとなり、暑苦しさに説得力があった。しかもわざとらしいアピールではなく、本当に目の前の選手や勝負に肩入れしている熱量とピュアでポジティブな声かけが、「信じるに足る」という信頼とエンタメ性との絶妙なバランスをつくり上げていたといえる。

 一方の織田さんには、松岡さんのような選手としての実績がない。にもかかわらず支持を集めたのは、演技を生業とする人ならではの表現力で、スポーツを「物語化」して伝えたからだろう。

 それは、いうなれば「織田裕二劇場」である。ビールのCMさながらの爽快感あふれる顔芸、興奮で上ずった声、大げさなほどの身振り手振り。時に目をむき、時にタメをつくり、見どころや選手の背景を伝えるその語りは、単なる競技ではなく「人間ドラマ」になる。専門性よりも感情移入を優先させる実況スタイルは、むしろ俳優だからこそできたものだ。

 中井アナの回想によれば、世界陸上のキャスターを務めるにあたって長時間会議室にこもって織田さんやスタッフと勉強会を何度も行っていたそうだ。そのかいあって織田さんの陸上知識と熱はますます高まっていった。当初こそ「陸上素人の俳優風情」という扱われ方をしていたが、かえって素人目線を失わずに勝敗に一喜一憂する姿と地道に勉強を重ねてきた成長を見せ続けたことで、テレビの前の視聴者の信頼を、修造スタイルとは違う形で得ていったといえる。つまり、「暑苦しさ=うっとうしさ」から、「暑苦しさ=誠実さ」へと意味が変換したのである。

MC「アスリート」だった織田裕二の脚力 逆にエンターテイナー化しつつある選手たちに見る“織田裕二劇場”の終焉

 ある意味で、織田さんは「アスリート」に通底する力があったのだともいえる。主役級の俳優として、どんなに批判されてもめげずに鍛錬を積み、トライアンドエラーを繰り返し、ベストなパフォーマンスを引き出すための努力を怠らない。負けん気の強さとひたむきさを持つ織田さんが、表情筋と喉を震わせながら実況する姿は、さながらアスリートだった。

 しかし時代は変わり、今度はアスリートたちがエンターテイナー化してきた。アニメキャラのポーズを取り、芸人顔負けのキャッチーな一言を繰り出す。それは主役であり座長である織田さんの劇場において、予期せぬ登場人物として混乱をもたらし始めたのではないだろうか。20代の選手がアドリブで見せたポーズの元ネタが分からない。だから笑うこともツッコむこともできないという状況に置かれては、織田さんの魅力は半減してしまう。

 織田さんの存在は「時代の空気に流されないスターの脚力」を体現していたのでないだろうか。批判されても引かず、炎上も恐れず、自分の熱をそのままぶつけ続ける。SNSでの炎上を避けて優等生的に振る舞う令和の芸能人たちと対照的に、その姿勢はむしろ潔かった。美しく程よくユーモラスという、バランス感覚に優れた若い選手たちの進化はまぶしいが、視聴者はいつの間にか織田さんの「暑苦しさ」に安心感を覚えるようになった。

 織田さんが世界陸上を去っても、私たちはあの「暑苦しさ」をきっと懐かしむだろう。なぜなら、それは時代が失いかけている真っすぐさであり、スターにしか許されない熱の奔流だったからだ。

 織田さんが暑苦しくいてくれる、それだけが世界陸上視聴者のAll my treasures。令和のテレビから失われつつあるのは、専門知識ではなく、あの堂々たる暑苦しさなのかもしれない。

冨士海ネコ(ライター)

デイリー新潮編集部

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