麻生太郎氏「俺はジョン・レノンと同い年」から見えてくる「生涯現役」思想
自民党総裁選において、候補者と同じかそれ以上の存在感を示しているのが、党の重鎮である麻生太郎最高顧問(85)だ。
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総理大臣としての在任期間は1年弱、支持率は低迷し続けた。失言騒動も多い。それでも党内での影響力は大きく、いまなお「キングメーカー」と称されることも珍しくなく、総裁選候補者たちもこぞって「麻生詣で」をしている。
党内での評価とは別に、国民人気が高いとは言いづらいだろう。麻生氏のキングメーカー然とした振る舞いが報じられるたびに、ネット上などでは反発の声が上がる。中でも多いのは「いったいいつまでやるつもりなのか」という年齢を問題視するものだろう。
当然、そうした声は当人も耳にしているに違いない。それでもなお、現役であり続けるのはどういう考えによるものなのか。
年齢に関する麻生氏の思考が率直につづられた文章が収められているのが、麻生氏が60代の時に刊行された著書『とてつもない日本』(2007年刊)である。以下、その「生涯現役」哲学を見てみよう(同書から抜粋・引用しました)。
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若さは至上か
昨今の日本では「老い」が嫌われ、「若さ」がよいとされる風潮が強いようである。塩川正十郎さんや渡部恒三さんのような、例外的に人気を博す方もいないわけではないが、基本的には政治の世界でも、若返り人事がよしとされる。女性に限らず男性もエステが大流行で、若くて見栄えのいいのがよく、老けておじさん臭いのは敬遠される。「加齢臭」などという言葉が広がって、しかも忌(い)み嫌われるようになったのも最近のことである。
確かに若さは重要である。特に近代工業化社会では、労働生産性が重んじられ、肉体的に若くて丈夫な人間が尊重されてきた。明治維新以来、日本は西洋並みの近代工業化社会に一日でも早く到達すべく、文明開化、富国強兵、殖産興業と100年以上も同じ精神でやってきた。その結果、いつの間にかそれが絶対の真理というか、本来の姿と思ってしまった。どこか、古い「平等」主義にも似た構図である。
若さを至上のものと考える、いやそこまでは行かずとも「若いって素晴らしい」ということを当たり前のように考えてしまうと、当然、その弊害が出てくる。つまり、少子高齢化が進み、高齢者の比率が高まっている日本社会の将来イメージが、総じて経済成長のない、暗く貧しいものになりやすいのである。
事実、マスコミや役人、政治家、学者など、世の中に少なからぬ影響をそれなりにお持ちでも発想はあまり豊かでない方々の、高齢化社会のイメージは総じて暗く貧しい。もちろん「老いても元気で」式のことを言う人は多い。しかし、どこまで本気なのか、いささか怪しい。だから老人についての言説は往々にして画一的になっていて、日本社会の未来をいっそう夢のないものにしているように思われる。
「そんなことはない。老人の素晴らしさを私たちは知っている」という方がいるかもしれない。それならなぜ「少子高齢化」について、ネガティブな物言いだけがはびこるのだろうか。少子高齢化とはすなわち「老人が多い社会」の到来である。それが問題だというのは、つまり「老人が多い社会は良くない」といっているも同然ではないか。(略)
自分のまわりをよく見渡していただきたい。マスコミは、働く世代が退職者、高齢者の面倒をみる形の社会福祉の充実を叫んでいるが、実態はどうだろう。家族を観察してみれば、話が正反対なのがよくわかる。おじいさんやおばあさんが若者、すなわち子供や孫に小遣いという名の経済援助をしている。孫ならいいが、いい年こいて、大人になっても親から小遣いを貰っているなんてことも珍しくないだろう。
ジョン・レノンと同い年なのだ
私は昭和15(1940)年、戦争の始まる前年に生まれた。多くの若者から見れば「じいさん」に違いない。しかし、その年に生まれたのが、あのビートルズのジョン・レノンだと聞いたらどうだろうか。彼と私とは1か月しか誕生日が違わない。不幸な亡くなり方をしたけれども、健在だったら、きっと彼はまだ新しい音楽を作っていただろう。思いっきり単純化していえば、「老人」と一口に言っても、すでに俳句や詩吟よりロックンロールの世代になっているのだ。
さらに私たちの世代の一つ前は昭和ひと桁、例の「過労死」という言葉を世界に広めた世代である。世界で一番勤勉な人たちといってもいいだろう。
ロックンローラーや過労死するほど働く人が、周囲に大勢いる。この人たちが、昔のご老人のごとく、ご隠居然として老後を送るとは考えにくい。若者、中年も一緒になっていろいろと考えて、行動を起こすことを考えるべきだ。
オートバイに乗るもよし
もちろん、(高齢者の中には)働きたくない人もいるだろう。「もう十分働いた。年金で何とか生活できる」というわけだろうが、本当にそれでいいかどうか、お節介ながら考えていただきたい。「十分働いた。老後は妻とゆっくり」と思っているのは亭主だけ、というケースは珍しくない。
だが万が一熟年離婚の憂き目にあったり、伴侶との死別によって一人きりになったとしても、覚悟、心構え一つでどうにかやっていける。働きたくない人に無理に働けとはいわないが、せめて家に閉じ込もらず、どうか遊び上手になっていただきたいのである。経済的な余裕もあり、時間的な余裕もある。ゴルフ三昧(ざんまい)でも構わない。
世間の目なんか気にすることはない。いい年してあんなことしてと言われないかとか、これさえやっていれば近所の人から良く言われるんじゃないかといったことばかり考えていたのでは、憂鬱になるだけで楽しく遊べない。
年甲斐もなく……とか、いい年こいて……などといわれても気にせず、学生時代に乗りたくても買えなかったオートバイを60歳になってから買って乗り回す。若い人じゃ買えないようなモトグッチとか、ウアンビーンなんていう高級なイタリア製のオートバイを購入して、逃げた女房は忘れて、合コンかなんかで知り合った女性を後ろに乗せて、ダンディにツーリングを楽しむ……、そんなことができれば、高齢化者社会はバラ色ではないか。
つまり、「悠々自適」なんて言えるカネのある老人には、しこたまカネを使っていただけばよい。元気のある老人には大いに働いてもらって、活力ある高齢化社会を作っていけばいい。そして、本当に恵まれない人たちは、国が責任を持って支えていく。
子供に「いろんな生き方がある」と教えているのならば、大人も老人も、多様な生き方を示せばいいのである。
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この頃と考えが変わっていなければ、麻生氏の辞書に「悠々自適」の四文字は存在しないのかもしれない。











