【べらぼう】松平定信の北朝鮮のような出版統制 命を落とす者も出た「黄表紙作家」たちの悲劇
草双紙がはじまって以来のヒット
天明8年(1788)正月、日本橋通油町の耕書堂の店先に、朋誠堂喜三二作の黄表紙『文武二道万石通』が並んだ。源頼朝が重臣の畠山重忠に命じ、武士たちを文武に秀でた者と、どうにもならない「ぬらくら武士」に選り分けさせ、「ぬらくら」を改心させるという内容だった。ちなみに「万石通」とは、玄米と籾とを選り分けるための道具のことだ。
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鎌倉時代の話だが、畠山重忠は梅八紋がついた裃を着ており、松平定信が置き換えられているとわかる。一方、ぬらくら武士としては、七曜紋がついた衣装を着ているのは田沼意次に違いなく、ほかにも元勘定奉行の松本秀持、元勘定組頭の土山宗次郎ら、田沼派の武士たちが描かれていた。
NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第35回「間違凧文武二道(まちがいだこぶんぶのふたみち)」(9月14日放送)では、早速『文武二道万石通』を読んだ松平定信(井上祐貴)は、「喜三二の神がわたしを穿ってくださったのか。しかも重忠になぞらえ」とご満悦だった。腹心の水野為長(園田祥太)が「取りようによっては、殿が心血を注いでやっている政を馬鹿にしておるとはいえませぬか?」と疑問を差しはさんでも、「黄表紙であるからおもしろくはせねばなるまい。肝要なるは蔦重大明神がそれがしを励ましてくれておるということ」と、感激しきりであった。
この『文武二道万石通』は売れに売れた。戯作者の滝沢馬琴は『近世物之本江戸作者部類』にこう書いている。「古今未曽有の大流行にて、早春より袋入にせられ、市中を売あるきたり。(中略)赤本の作ありてより以来、かばかり行われしものは前未聞の事也といふ」。つまり、かつてない大流行で、早春から袋入りにして草双紙売りが売り歩き、草双紙がはじまって以来、これほど売れた作品はない、というのだ。
「続編」でよりキツくなった定信風刺
いうまでもなく、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)はこの書物を、定信による寛政の改革を風刺する目的で刊行した。ところが、『べらぼう』では、それがイマイチ伝わっていない状況が描かれた。それどころか、当の定信はよろこんでいる。これでは、むしろ定信の治世を応援するかたちになってしまう。
史実において『文武二道万石通』が売れたのは、厳格な寛政の改革に不満をもつ人が増えていたからだと思うが、なかには裏側を読めず、定信礼賛の書物と受けとった向きもあったのだろう。実際、続編を出すことができたのは、それほど辛辣な風刺であるとは受け取られず、見逃されたからだといえる。
結果として、天明9年(1789)の正月に耕書堂の店先に並んだ恋川春町作の黄表紙『鸚鵡返文武二道』は、定信の改革に対する風刺がよりきつくなっていた。「鸚鵡返」という言葉で『文武二道万石通』の続編であることが示されたこの書物は、ざっと以下のような内容だった。
平安時代の醍醐天皇の御代、世に華美や奢侈が横行していたので、天皇を補佐する菅秀才は源義経を起用し、人々に武芸を指南させる。ところが、みな牛若丸の千人斬りを真似して周囲に斬りかかったり、乗馬の訓練と称して女郎や男娼に馬乗りになったりと、やりたい放題。そこで秀才は自著『九官鳥の言葉』を教科書にして道徳を教えようとするが、本に書かれた「天下国家を治るは凧をあげるようなもの」という譬えが読み違えられ、みんながはじめたのは凧あげだった――。
むろん、菅秀才は定信のことで、『九官鳥の言葉』は、定信が教諭書として書いた『鸚鵡言』を茶化している。
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