【べらぼう】松平定信の北朝鮮のような出版統制 命を落とす者も出た「黄表紙作家」たちの悲劇

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大ヒットしたばかりに

 この『鸚鵡返文武二道』もよく売れたという。滝沢馬琴が記した前出の『近世物之本江戸作者部類』には、「『万石通』の後編『鸚鵡返文武二道』いよいよますます行れて、こも亦大半紙摺りの袋入にせられて、二三月比まで市中売あるきたり」と書かれている。こちらも大評判になり、天明9年正月に刊行されたのち、2月、3月まで江戸で売り歩かれたというのだ。

 2冊がヒットしたのは、文武奨励や質素倹約を強く訴える定信の治世に、息苦しさを感じる人が多かったからだと考えられる。だが、自身の政治をこうも露骨に揶揄され、その書物が大評判となれば、定信としては捨ておけない。この期におよんで強い態度に出る。第36回「鸚鵡のけりは鴨」(9月21日放送)では、町奉行所の与力や同心らが蔦重の耕書堂に押しかけ、これらの絶版を言い渡す。

 そして、このことは時代が大きく転換する契機となった。教養ある武士作家たちが活躍した戯作や狂歌の黄金時代は、ここに終わりを告げる。

 前出の定信の腹心、水野為長は隠密を使って世間の噂を集め、定信に渡していた。それらはのちに『よしの冊子』としてまとめられた。そこに記された噂のなかに、『文武二道万石通』と『鸚鵡返文武二道』に関するものもある。

命まで失った恋川春町

 前者についての噂には、「朋誠堂喜三二が寛政元年(1789)3月ごろ、藩主の佐竹義和公に叱責された」というものがあった。喜三二の本職は出羽国久保田藩の江戸留守居役で、本名は平沢常富。さすがに松平定信を揶揄してはまずいとして、江戸留守居役を外して在国を命じられた、という内容だった。

 また、後者についての噂には、この黄表紙は「駿河小島藩主の松平信義が書いたものだ」というものがあった。こちらの作者の恋川春町は小島藩に仕える武士で、筆名は藩邸が小石川春日町にあったことに由来する。だが、万が一、大名が定信を風刺または揶揄したとなれば大変な事態であり、春町としては、自分が書いた戯作のために藩主に迷惑がおよぶとなれば、家臣として立場がない。

 結局、喜三二は佐竹公から、戯作の筆を折るように命じられたとされる。悲惨なのは春町で、寛政元年7月7日に死去した。主君に迷惑がおよぶのを避けるために、みずから命を絶った可能性が指摘されている。

 田沼時代と正反対の、時代の息苦しさが伝わってくる。だが、武士が戯作から退場しても、まだ町人の作家はいた。『べらぼう』で古川雄大が演じる山東京伝は、北尾政演としては時代を代表する浮世絵師の一人で、山東京伝としても洒落本や黄表紙のヒット作を次々と出していた。

よくわかる「もとの濁りの田沼恋しき」の意味

 さすがの蔦重も、御政道を正面から風刺して摘発される愚を、さらに重ねようとは思わなかった。そもそも、御政道をからかうだけの教養がある武士作家はもういない。そこで蔦重は京伝を起用し、寛政3年(1791)に『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹麓』という、洒落本三部作を刊行した。

 いずれも吉原や深川などの遊里を題材にしているが、寛政の改革のご時世を鑑みて、浄瑠璃や歌舞伎で知られた人物を登場させ、舞台や時代設定も変えるなど、工夫を凝らしていた。そのうえ、教訓までつけ足して、ただの洒落本で終わらないように見せていた。

 それでも、文武の基本に立ち返るように厳しく説く松平定信の治世においては、御政道とは関係なくても、洒落本だというだけで、公序良俗に反するとして排除された。実際、前年には洒落本の事実上の禁止令が出されていた。蔦重に御政道を風刺した「前科」があったことも影響しただろう。

 結局、京伝は手鎖50日に処せられ、蔦重は財産半減の処分を受ける。

「白河の/清きに魚も/住みかねて/もとの濁りの/田沼恋しき」。一部の教科書にも載っているほどよく知られたこの狂歌は、いうまでもなく白河藩主の松平定信と、失脚した田沼意次を比較している。定信による出版統制を知るだけでも、この狂歌に込められた意味と、共感する人が多かった理由が、よく伝わるのではないだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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