坂本弁護士一家「最悪の結末」から30年…「オウムを狂信的犯罪集団と見抜けなかった」神奈川県警が背負った十字架の重み

国内 社会

  • ブックマーク

 日本の安全神話を根底から覆しただけでなく、世界中を戦慄させた未曾有のテロ「地下鉄サリン事件」から今年で30年目を迎えた。また、9月11日は、一連のオウム真理教事件の原点となった坂本弁護士一家殺害事件が“最悪の結末”を迎えてから、30年の節目でもある。信教の自由を隠れ蓑にした犯罪組織という実態を暴こうとした法曹界に牙を剥き、日本の治安を担う全国29万人の警察組織へ全面戦争をしかけて荒唐無稽な国家転覆計画を実行に移そうと試みたオウム。彼らが最初に標的としたのが、坂本堤弁護士だった。一家三人殺害事件が残した教訓とは、一体何だったのだろうか。

空振りに終わった捜索

 坂本弁護士(殺害時・33)は当時、横浜法律事務所に所属し、旧国鉄労働組合事件や医療被害弁護団などで活躍する人権派弁護士の旗手として知られていた。オウムは昭和62年7月、名称を「オウム神仙の会」からオウム真理教に変更。この頃から子供や親族がオウムに勧誘され音信不通となるトラブルが相次ぐようになり、家族らから相談を受けた坂本弁護士は仲間に声をかけて弁護団を結成。教団の被害対策に乗り出していた。そして平成元年11月、惨劇は起きた。

 麻原彰晃元死刑囚(執行時・63、本名・松本智津夫)は同月2日、教団内で科学技術省大臣や建設省大臣、自治省大臣などと呼ばれていた幹部6人を静岡県富士宮市の教団総本部に集めて「坂本弁護士をポアしろ」と殺害を指示。6人は4日午前3時ごろ、坂本宅に侵入して坂本夫妻の首を絞め、長男の龍彦ちゃん(殺害時・1歳)の口をふさぐなどして一家三人を殺害した上で、遺体を新潟、富山、長野3県の山中に分散して埋めた。

 一家が「神隠しに遭ったかのように」(検察OB)忽然と姿を消したことから、神奈川県警は事件に巻き込まれた疑いもあるとみてオウム関与の可能性も視野に捜査へ着手。翌2年の2月と4月、実行犯の1人から有力な情報を得て、後に龍彦ちゃんの遺体が見つかった長野県大町市の現場付近を捜索するなどしていたが、発見できず、捜査はそのまま停滞してゆく。

 弁護士、検事、判事の法曹3者の間では当初から「坂本弁護士はオウム教団とのトラブルによって連れ去られたのではないか」との見方が根強かったが、警察の反応は鈍かった。警察OBはこう振り返る。

「当時は『まさか宗教団体が拉致事件など起こすはずはない。ましてや殺人なんてあり得ない』といった性善説や先入観に捉われていた」

次の狙いは滝本弁護士

 警察の動きが鈍い中、平成2年にはオウム幹部がそろって衆院議員総選挙に出馬する。だが、惨敗したことで宗教弾圧を主張しながら孤立化を強め、武力による現状打破に向けてホスゲンや炭疽菌といった化学兵器の製造や、自動小銃の密造に手を染めてゆく。

 その一方で疑念の目を向ける法曹界に対するオウムの牙は、旧国鉄労働組合事件などで坂本氏と一緒に活動し、友人でもあった滝本太郎弁護士に向けられた。

 オウム脱会活動の途中で行方不明となった坂本氏から、事件直前の10月に「手伝ってくれ」と誘われ、結果的にその仕事を引き継ぐ形で教団と対峙したのが滝本氏だった。長野県松本市でサリンが散布され、8人が死亡した松本サリン事件のおよそ2カ月前の平成6年5月9日、教団施設があった富士山麓の住民とオウムの間で争われていた民事訴訟で、滝本氏が住人側として甲府地裁に出廷している最中、駐車場に停められていた滝本氏の乗用車内にオウムがサリンを流し込み、殺害しようとしたこともあった。

 だが、警察組織はオウムの凶悪化を見抜くことができぬまま放置を続け、地下鉄サリンの暴挙を許す結果となった。前出の警察OBは「全国の警察が『オウムはとんでもない狂信的犯罪組織だ』という共通認識を持つまで、あまりにも時間がかかり過ぎた。坂本弁護士の無念を思うと申し訳ない」と懺悔する。

次ページ:捜査員の涙の意味とは

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。