坂本弁護士一家「最悪の結末」から30年…「オウムを狂信的犯罪集団と見抜けなかった」神奈川県警が背負った十字架の重み
捜査員の涙の意味とは
「龍彦ちゃんが見つかりました」
平成7年9月10日の夕刻、神奈川県警の捜査員らは長野・大町温泉郷近くの捜索現場で、幼児の全身遺体を発見。一報はすぐさま横浜市中区の県警本部に届けられ、一縷の望みも絶たれた県警幹部らは絶句した。
捜索着手から5日目。龍彦ちゃんは深さ1メートルの土中で眠っていた。現場の捜査員らは遺体の一部の上にあった石を無言で払い、一様に涙を流した。「嗚咽を漏らしていた者もいたと聞いた」(同OB)。その涙は警察官としての自戒か、無念か、はたまた絶望感か。それとも1人の人の親としての悲嘆の涙だったのだろうか。
ある神奈川県警OBはこう語る。
「坂本さん夫妻の遺体は、捜索初日の6日に発見されていました。長野の現場では悔しい想いや教団への怒りがないまぜとなっていましたが、1人だけ見つからなかったことで『龍彦ちゃんはどこかで生きていて欲しい』という勝手な思いも抱いていました」
それには、理由があった。
「よくニュースで流れましたが、龍彦ちゃんがブランコに乗るあどけない様子が、動画として残っていたので、元教団幹部の『遺体は埋めた』との供述がどこか信じられず、受け入れられなかったんです」
宗教団体を名乗る集団は凶悪犯罪と無縁――との思い込みは、日本警察の“平和ボケ”を象徴していた、との指摘がある。某宗教法人の脱会活動を支援する弁護士はこう言う。
「カルト宗教の存在は、オウム事件の前から海外では取りざたされていました。最初にクローズアップされたのは1978(昭和53)年に南米のガイアナで起こった900人大虐殺の米カルト教団・人民寺院です。坂本事件の後にも、米国の新興宗教団体ブランチ・ダビディアンが1993(平成5)年にウェイコ事件を起こしています。事件では武装した教団側がFBI(連邦捜査局)と銃撃戦を繰り広げ、80人が亡くなった。坂本さん一家が拉致された前提で捜査を本格化させるタイミングはあったはずなのです」
同弁護士はその上で「日本警察がオウム対策に腰が引けていたのは、先入観に捉われていたことが要因なのは間違いありません」と指摘。「ただ、神奈川県警は宗教弾圧と批判されることを嫌った部分もあると感じます。ここの警察には事なかれ主義の風潮が見て取れるからです」とも話す。
ストーカーが社会問題化する中、平成11年に埼玉県桶川市で起きたのが、桶川ストーカー殺人事件だった。ストーカーという言葉は当時、ニュースで取りあげられることも徐々に増えていたが、ついに凶悪事件に発展。自己中心的な行為の末の凶行に、世間は震撼した。
だが秋葉原の「耳かき店」に勤務する女性が同21年、東京都港区西新橋の民家で殺害される新橋ストーカー殺人事件が起き、警察庁は全国警察に対策強化を指示。にも拘わらず、神奈川県警は同24年に神奈川県逗子市で逗子ストーカー殺人事件の発生を許してしまう失態を演じた。別の弁護士は「民事不介入の抗弁が通用したのは桶川事件までです。事件から10年以上経っていたのに新たな事件の発生を許したのは、神奈川県警に根強く残っていた事なかれ主義が影響したのです」と断罪する。昨年暮れに川崎市で起こったストーカー殺人事件でも、神奈川県警は捜査の不手際を認め、遺族に謝罪している。
「坂本弁護士事件でも、最初の捜索前に実行犯の1人から供述を得ていながら殺人事件と断定できなかったのは、神奈川県警の失態だったのは明らか。遺体発見の前に『死体なき殺人』と断定して捜査本部を立ち上げることができたのも、地下鉄サリンなどで教団幹部たちを自供させた警視庁の協力あってこそ。最後まで先入観を拭えなかった神奈川県警の背負った十字架は重い」
警察庁の元最高幹部は、そう語った。
[2/2ページ]

