昭和・平成の名時代劇を手がけた殺陣師「菅原俊夫」さん 人生を変えた「美空ひばり」の一言
映画からテレビへ
「僕らはテレビに出るなんて考えたこともなかった。東映ではスターの控室がある『俳優会館』の真ん前に一番大きな第1ステージがありました。そこは映画の大作を撮る場所。スターは暑くても寒くても控室からすぐ目の前の第1ステージに行けるわけです。でも、テレビでは大きいセットは使えない。撮影所の端っこ、(俳優会館から)一番遠いところで撮るんです。島流しみたいだった(笑)」
撮影所で「なんや、あいつ、テレビに行ったんかいな」と陰口を言われるほど映画より格下とされたテレビだが、東京五輪(1964年)の中継などを経て一般家庭に急速に普及。娯楽の中心となっていく。
「はじめは映画と違ってやりにくいと思いましたが、だんだんテレビに慣れてきました。映画の五社協定もなくなってテレビにたくさんのスターが出るようになると、『遠山の金さん』や『用心棒』シリーズ(共にNETテレビ)など本数も増えた。僕らも何本も出るとお金になるから走り回るんですよ。朝は浪人で午後はヤクザ者とか、衣装も結髪も違うから大変でしたけど、すぐに対応してくれるのも長く培われた京都の技術があってこそですね」
そうした時期に菅原は「殺陣師にならないか」と打診された。
「水戸黄門」の殺陣師に
「会社としてはテレビの量産体制で人手が足りない。殺陣師も不足していました。正直、迷いましたよ。殺陣師になれば俳優とは違う契約になる。それで東京で公演中のひばりさんに相談に行ったら『菅ちんは役者になりたくて故郷を捨てる覚悟だったんでしょ?』と言われた。それで一旦は断ったんですが、会社はどうしてもと言う。会社の事情も僕はわかっていたし、もう一度、ひばりさんのところに行きました。ひばりさんはじっくり僕の話を聞いて、『ならば誰よりも忙しい殺陣師になりなさい。私、応援する』と背中を押してくれた。その言葉があって腹が決まりました」
とはいえ、新人殺陣師に仕事はなく、毎日、先輩の手伝いばかりで、質屋通いもした。その辛さを支えたのは「いつかお嬢(ひばり)の殺陣師になる」という強い意志であった。
幸い東映のテレビ時代劇は人気が高く、「水戸黄門」「大岡越前」を放送していたTBS月曜8時の「ナショナル劇場」に参加することになる。
「黄門様役は、初代の東野英治郎さんから西村晃さん、佐野浅夫さん、石坂浩二さん、里見浩太朗さんと変わりました。僕はすべての黄門様と関わってきた。みんなそれぞれに個性がありますね。特に里見さんはもともと東映京都の俳優で、東野さんや西村さんの時代には助さん役で出演していたし、殺陣が得意な時代劇の二枚目。ついつい里見黄門様が助さん格さんより強く見えちゃう(笑)。こういう経験は初めてだったね」
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