【べらぼう】子だくさんの「オットセイ将軍」家斉 厳格な松平定信と相性は最悪だったのか
水と油の老中と将軍
天明7年(1787)6月19日、松平定信(井上祐貴)が老中、それもいきなり首座に就任した。田沼意次(渡辺謙)を蛇蝎のごとく嫌う定信が老中首座になったということは、いうまでもなく、田沼時代の完全な終焉を意味した。定信は江戸城本丸御殿の黒書院で、以下のような演説をした。
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「田沼病は恐ろしい病だ。人の心を蝕み、やがてそれは世の成り立ちさえ脅かす。これを治すための薬はただ一つ、万民が質素倹約を旨とした享保の世に倣うことである」。
「享保の世に倣う」とは、定信の祖父にあたる8代将軍吉宗の治世を模範にするということだ。田沼時代の重商主義には完全に幕を引き、だれに対しても質素倹約を徹底させると宣言したのである。NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第34回「ありがた山とかたじけ茄子(なすび)」(9月7日放送)。
もちろん、定信は質素倹約を旨としたモラルを、11代将軍家斉にも守らせたい。しかし、第35回「間違凧文武二道(まちがいだこぶんぶのふたみち)」(9月14日放送)では、定信の意向を家斉(城桧吏)に反映させるのが困難な様子が描かれる。まだ数え16歳の家斉だが、日々大奥に入り浸り、すでに大奥女中とのあいだに子をもうけ、幕府の儒官である柴山栗山による講義も休みがちだという。早い話がこの将軍を、定信はコントロールすることができないのである。
第35回では家斉が、自分は子作りに秀でていて、定信は学問に秀でているので、それぞれがしっかり勤めればいい、という趣旨のことを定信に告げる。若き将軍家斉、なかなか達観したものだが、堅物の定信にそんな言葉は通じない。この2人、史実のうえではどうなったのだろうか。
中止に追い込まれた田沼時代の政策
それまで政治の経験がほとんどなかった定信が、いきなり老中首座に抜擢された背景には、将軍になった家斉がまだ若年なので、しばらくは「つなぎ」が必要だという御三家の意向があった。家斉が成長するまでの「つなぎ」の役割が、8代将軍吉宗の孫で、一時は11代将軍候補にも擬せられた定信に託されたのだ。
しかし、定信の「寛政の改革」は、すぐに大奥に入り浸ろうとする将軍にとっては厳格すぎた。家斉が成長するにつれ、2人のあいだには齟齬が生じることになる。
まずは、老中首座としての定信の施策について見ていきたい。
定信が真っ先に行ったのは、田沼時代の施策を次々と中止することだった。印旛沼と利根川を干拓し、水上に新しい水流通路を整備する計画。貨幣の交換相場を一定にしようという施策。幕府が預金を幅広く集め、財政難の大名や旗本に貸し出す事実上の「中央銀行」の設立計画――。それらはみな中止されてしまった。
当然ながら、田沼肝いりの開国計画も頓挫してしまう。蝦夷地(北海道)の調査と開発に積極的だった田沼は、オランダ商館長らが残した記録によると、新たに箱館を開港することで、ペリー来航よりも数十年早い開国をめざしていたと思われる。
もっとも、継承された施策もあった。田沼は商工業者の同業者組合である株仲間を認める代わりに、運上金という税を徴収し、幕府財政の足しにした。これまで定信は、株仲間をみな解散させたようにいわれてきたが、実際は定信も、株仲間と運上金には頼り続けた。そうしなければ、すでに幕府財政が回らない状況だったからだ。
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