【べらぼう】子だくさんの「オットセイ将軍」家斉 厳格な松平定信と相性は最悪だったのか

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厳格すぎた松平定信

 現実には、このように田沼時代と変わらない政策もあったのだが、それだけに定信は、田沼時代との違いを強調できるところで強調し、田沼政治を否定する姿勢を世間にアピールする必要があった。幸いにも世間は、天変地異の頻発も、飢饉も、米不足による打ちこわしの発生も、田沼政治のせいだと思い込んでいる。

 そこで田沼政治の否定を強力にアピールした。ひとつは田沼の居城、相良城(静岡県牧之原市)の破壊だった。天明8年(1788)1月16日から2月5日にかけ、御殿や櫓、門、長屋、役宅まですべてが解体された。その年の7月24日、田沼意次は失意のまま江戸で没するが、相良城はその後も石垣まで徹底的に壊された。

 もうひとつは田沼時代の自由な空気の否定だった。それが打ちこわしが発生する世の乱れにつながったというストーリーを構築し、祖父である8代将軍吉宗の享保の改革を継承する「質素倹約」と「文武奨励」を強力に打ち出した。定信の性格を反映した改革は、吉宗が行ったものよりずっと厳格で、風紀も厳しく取り締まられた。

 その流れで、出版のほか芝居など、庶民の娯楽にも厳しい統制が加えられた。田沼時代は自由度が高かった学問も、武士の道徳の基盤だった朱子学以外は禁止された。

 しかし、こうした厳格な政治が、日々大奥に入り浸る将軍家斉のもとで、いつまでも続けられるはずもなかった。

将軍の「根城」に手をつけようとしたツケ

 松平定信は老中に就任して6年余りの寛政5年(1793)7月、兼務していた将軍補佐役の辞退を申し出て、老中職まで解かれてしまう。その背景には、定信が家斉の2つの要望を却下したことがあった。

 その要望とは、1つは家斉の実父で、べらぼうでは生田斗真が演じている一橋治済に「大御所」の称号をあたえるというものだった。しかし、大御所とは原則、引退した前将軍にあたえられる称号である。もう1つの要望は、実家の一橋家の屋敷が手狭なので、江戸城内の二の丸か三の丸に移すというものだった。しかし、2つとも理不尽な要望なので、定信は却下した。

 ところが、そのせいで将軍家斉とも、その父の一橋治済とも軋轢が生じ、寛政5年(1793)7月、将軍補佐役の辞退を申し出た定信は、老中職まで解かれてしまった。

 定信が更迭されたのは、大奥に手をつけ、それを家斉が嫌ったからだ、という指摘もある。実際、年間20万両といわれた大奥の経費を、定信は3分の1程度まで減らした。そのうえ大奥の奥女中トップの上臈御年寄8人のうち5人を解任し、そこには家斉の乳母の大崎、家斉の側室お万の叔母である高橋も含まれた。

 大奥は家斉にとって、日々入り浸る根城で、結局、正妻と16人の側室とのあいだに53人の子をもうけた。そこに容赦なく手をつけたとあれば、家斉が反発しないわけもない。質素倹約や公序良俗の厳守を言い出した以上、定信はいずれ、将軍家斉と対立せざるを得なかったということだろう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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