「私が留守番電話を入れた時間に、向田さんは飛行機事故に…」 黒柳徹子さんが明かす、向田邦子さんとの秘話 今でも作るという「向田さん直伝のレシピ」とは

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毎日のように向田さんのマンションに通うように

 向田さんの霞町のマンションにお邪魔したのは、(俳優の)加藤治子さんに連れられて行ったのが最初でした。向田さんもそんなに忙しくない頃だったのか、「いつでもいらっしゃい」と言ってくださって、毎日のように通うようになりました。

 私はまだNHKに所属していたけど、TBSやNET(現テレビ朝日)など民放にも出始めた頃だったんです。内幸町(NHK)と赤坂(TBS)と六本木(NET)の真ん中に向田さんのマンションがあって、空き時間をつぶすのに便利だったの(笑)。でも、よっぽどウマが合わないと、あんなに毎日、私も行かないし、向田さんもイヤな顔をしたと思います。

 向田さんは私が部屋にいても気にならないらしく、「これ終わらせるから待ってて」と原稿を書いていることもありました。私も私でほったらかしにされても平気なので、ソファに寝転んでドラマのセリフを覚えたり、猫の相手をしたり。

 彼女の仕事が一段落すると、ずっとお喋りしていました。昼間話して、また夜、帰宅してから電話で話して、休みの日も電話して、「よく話すことあるわねえ」と母にあきれられたくらい。何の話をしたか、全然覚えていないのが残念だけど、恋愛の話や相談ごとは一切なかったから、映画や本、ファッション、食べ物、人のうわさとかじゃなかったかしら。

「私が留守番電話に吹き込んでいた時間に、台湾で飛行機事故に……」

 向田さんが亡くなった後、なぜあれほど長い時間、つき合ってくれたのかな、と考えていたんです。その理由が分かったのは、後年、妹の和子さんがお書きになった『向田邦子の恋文』(2002年)を読んだときでした。向田さんはカメラマンの恋人を亡くされて、そのあとご実家を出て霞町のマンションで暮らし始めたんですね。寂しいというか、ちょっと人生のエア・ポケットみたいな時期だったのかもしれません。だから、恋人のことなんかを詮索しないし、放っておいても平気だし、面白い話も仕入れてくる私といるのが楽だったんじゃないかなって。

 1981年8月、私は夏休みでニューヨークに行くことにして、出発当日、ふと向田さんに電話をしてみたら、留守番電話になって「台湾を旅行しています」という向田さんの声が流れてきました。あら、同じ時期に海外旅行してるのねと思って、メッセージを吹き込みました。「戦後すぐの頃、進駐軍から出回ってた、ゴムみたいな黒くてニチャニチャしたお菓子、あなた、エッセイに書いてたじゃない? あれ、買ってきてあげるわ」。あれ、というのは“リコリスキャンディ”という甘草(かんぞう)を原料にしたお菓子で、アメリカでしか買えなかったんです。メッセージの最後に「帰ってきたら、旅のことを報告し合いましょうね」と入れたのですが、後から思えば、まさに私が留守番電話に吹き込んでいた時間に、台湾で飛行機事故に遭っていた……。

 向田さんは乳がんになったけど、そのあと直木賞を受賞して、でも飛行機事故に遭遇して……「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉の意味を深く納得しました。そんな納得はしたくなかったことですけど。

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