【べらぼう】染谷将太「喜多川歌麿」が蔦重に見せた 精密な虫の絵が代名詞「美人画」につながるまで
歌麿の「ならではの絵」
蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)のもとを離れ、師匠の鳥山石燕(片岡鶴太郎)に頼み込んで、あらためて修行を積んでいる喜多川歌麿(染谷将太)。「人まね歌麿」から脱皮して「自分ならではの絵」を描けるようになりたくて選んだ道だった。そんな歌麿が久しぶりに蔦重のもとに帰ってきた。NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第33回「打壊演太女功徳(うちこわしえんためのくどく)」(8月31日放送)。
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蔦重は日本橋通油町の耕書堂に不在で、墓地にいた。そこに埋葬されていたのは、打ちこわしを先導し、徳川(一橋)治済(生田斗真)の隠密と思われる男にねらわれた蔦重を助けて、代わりに刺されて死んだ小田新之助(井之脇海)だった。見るからにやつれた蔦重はその亡骸を埋めた土まんじゅうの前で、放心したように手を合わせていた。
歌麿はあえて、蔦重のそんな様子に気づかないように、「これ見てもらいたくてさ」と声をかけ、絵を差し出した。そこに描かれていたのは、トンボやケラなどの昆虫やカエル、その周囲の植物などで、きわめて精密に、しかも鮮やかに描き出されていた。それを見た途端、淀んでいた蔦重の目が一瞬輝き、歌麿は「これが俺のならではの絵さ」と伝えた。
蔦重が「生きてるみてえだな」と感想を述べると、歌麿は続けた。「うん、絵っていうのは命を写し取るようなことがあるんだなって。いつかは消えてく命を紙の上に残す。命を写すことが俺にできる償いなのかもしれねえって思い出して」。
第34回「ありがた山とかたじけ茄子(なすび)」(9月7日放送)では、ついに歌麿のこの絵が、豪華な狂歌絵本として日の目を見る。それは史実においても、歌麿の出世作になった。すなわち、歌麿の代名詞である美人大首絵につながる、彼の画業の事実上の出発点と評価されているのである。
松平定信の倹約方針に逆らって
『べらぼう』では新之助が扇動し、江戸の米屋や商家などが1,000軒前後も襲われたとされる「天明の打ちこわし」は、天明7年(1787)5月20日に発生した。これは事実上の政変につながり、翌月には松平定信(井上祐貴)が老中、それもいきなり老中首座に就き、いわゆる寛政の改革がはじまる。
定信は田安徳川家を継げる立場で、次の将軍にも擬せられていた自分を、欧州白河藩に追いやった田沼意次(渡辺謙)に、深い恨みを抱いていたとされる。また、田沼政治を否定する徳川御三家や一橋治済のバックアップで幕政のトップに立った手前、反田沼を演出する必要があった。
そうかといって、田沼政治をすっかり否定するのは事実上難しい。たとえば田沼は、商工業者の同業者組合である株仲間を認める代わりに、運上金という税を徴収し、幕府財政の足しにした。これは田沼政治の代名詞の一つだが、やめてしまえば幕府の財政がもたない。そこで、御三家などと一緒に「打ちこわしにつながった米騒動は田沼の政治が悪かったために起きた」というキャンペーンを張ると同時に、田沼政治の否定が目で見えるように、田沼時代の自由な雰囲気を槍玉に挙げ、それによって世が乱れ、打ちこわしまで発生したことにした。
こうして打ち出されたのが、定信の祖父である8代将軍徳川吉宗が行った享保の改革を継承する(定信のほうがより厳格だが)「質素倹約」と「文武奨励」だった。『べらぼう』の第34回では、蔦重が定信の倹約方針に反発し、あえて豪華な本をつくろうと考え、歌麿の虫の絵を使った美しい狂歌絵本を刊行する。それが『画本虫ゑらみ』だった。
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