【べらぼう】染谷将太「喜多川歌麿」が蔦重に見せた 精密な虫の絵が代名詞「美人画」につながるまで

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活き活きと緻密に描かれた小動物

 松平定信の政権が軌道に乗り、田沼意次が失意のうちに没する天明8年(1788)。この年から蔦重は、歌麿の作品を次々と刊行した。それまでの5年ほど、蔦重は歌麿に大きな仕事をあたえていない。理由はわからないが、『べらぼう』で描写されたように、その間が歌麿にとって、自分らしい画風を確立するための準備期間だったのかもしれない。

 そして天明8年正月、その後次々と披露される傑作の先頭をきって刊行されたのが、歌麿の名を世に知らしめた出世作『画本虫ゑらみ』だった。そのころは「天明狂歌」と呼ばれる、社会現象といえるほどの狂歌ブームが、最後の輝きを放っていた。間もなく、寛政の改革のせいで大田南畝(四方赤良)らの武士が狂歌の世界から去り、その灯は消えるが、その前に蔦重は、狂歌絵本の傑作をいくつか出した。

 なかでもベストセラーになったのが、件の『画本虫ゑらみ』だった。蔦重はおそらく狂歌師たちの入銀で、すなわち出資を募って出版費用を集め、きわめて質が高い贅沢な狂歌本をつくった。そこでは30人の狂歌師が虫を詠題に競っていた。具体的には、全15点の絵が15見開き30ページに載せられ、1見開きに虫(あるいはカエルなど)が2匹描かれ、2匹それぞれににちなんだ狂歌が詠まれている。

 なんといっても魅力の中心は歌麿の絵にある。トンボやチョウ、バッタやクツワムシ、ケラやハサミムシなどの昆虫から、ヘビやトカゲなどの爬虫類、それにカエルやカタツムリまでが、植物とともに、オールカラーで活き活きと緻密に描かれている。「図鑑のようだ」という言葉が頭をよぎるが、そんな月並みな表現では歌麿に申しわけないほど精緻で鮮やかで、この画家の技量に惚れ惚れとさせられる。

 雲母、真鍮、鉛白など鉱物系の豪華な絵の具がたくみに使われているのは、蔦重の矜持の現れなのだろう。それもあって質感はきわめて高い。

動植物への観察眼を女性にも

 この本の跋文は、歌麿の師匠の鳥山石燕が書いている。「今門人歌麿の顕はす虫中の生を写すは是れ心画なり」とし、「幼昔物事に細かく成るが、ただ戯れに秋甲虫を撃き、はたはた蟋蟀を掌にのせ遊びて、余念なし」と続けられている。歌麿は幼いころから、物事を細部までこだわって観察し、秋の虫たちと戯れ、コオロギを手のひらに乗せて観察したりしながら、絵の探求に余念がなかった、と回想している。

 ということは、こうした小動物こそが歌麿の原点、『べらぼう』流にいえば「ならではの絵」だったのかもしれない。

 歌麿はこれで波に乗った。翌寛政元年(1789)には、続編にあたる『潮干のつと』が刊行された。ここには36種の貝が、前作と同様に緻密かつ鮮やかに描かれ、36人の狂歌師が歌を詠んでいた。その翌年の寛政2年(1790)にも『百千鳥』が出された。こちらは同じ流れの鳥バージョンで、鳥を詠題に30の恋の戯れ歌が載せられ、やはり鳥も樹木も草花も、すこぶる写実的に描かれている。3作に共通するのは、眺めるだけで楽しく心地よいことだ。

 蔦重は歌麿を、吉原で開催される狂歌の会に連れていき、狂歌師たちの求めに応じて即興で絵を描かせるなどし、彼らの信頼を勝ちとらせたという。そういう場で発揮された歌麿の観察眼に蔦重が目をつけ、この狂歌絵本の連作が誕生したのかもしれない。

 しかし、小動物や植物を精緻に描けるというだけでは、当代一の浮世絵師になるには足りない。やはり人間が描けなければいけない。それがわかっていたからだろう、蔦重は『画本虫ゑらみ』が刊行されたのと同じ天明8年、歌麿に春画本『歌まくら』も描かせた。それはそれで写実的で、想像だけで描けたとは考えられない。

 蔦重は歌麿を、自身の故郷で顔が利く吉原に派遣し、動植物に向けられるのと同じ観察眼で、男女の営みを観察させたのだろう。そうしてじっくり女性を観察したことが、歌麿の代名詞となる、あの「美人大首絵」につながったのだと考えられる。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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