黒澤明監督の「民家の屋根を外せ!」発言は本当か 妥協を嫌った日本の巨匠は宮崎アニメで「すごく泣いちゃった」ほどナイーブだった
世界が認めた巨匠、黒澤明監督が88歳でこの世を去ったのは、1998年9月6日のことだった。「姿三四郎」(1943年)から「まあだだよ」(1993年)まで、残した映画は30本。
ダイナミックな映像表現や普遍的なヒューマニズムなど、「世界のクロサワ」を評価するポイントは山ほどあるが、日本では撮影時の大胆エピソードでもおなじみである。珠玉の作品の裏では、もう一つのドラマが展開していたのだ。
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そんな黒澤組の現場を体験した面々は、それぞれに当時の“衝撃体験”を語り継いでいる。制作現場をとりまく環境が変化した今では議論を招きかねない内容だが、黒澤監督の思いが類まれな“熱”を生んでいたことはたしかだ。死去から27年、そんな黒澤監督の伝説を、出演俳優とスタッフたちの証言で振り返ってみよう。
(全2回の第1回:以下、「週刊新潮」2010年4月1日号「馬すら演技した『黒澤明』の伝説」を再編集しました。文中の年齢等は掲載当時のものです)
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撮影現場に古今亭志ん生が
女優の香川京子さん(78)は、17作目「どん底」(1957年)で初めて黒澤作品に出演した。ゴーリキーの原作を、江戸時代の長屋に舞台を移した群像劇である。
「まだ20代だった私は、黒澤組に声をかけていただいただけでも嬉しい反面、自分が出たことで作品を壊したら大変だ、と凄いプレッシャーを感じました」
こう語るのは香川さんご本人だが、初めて撮影現場に入って驚いたという。
「そこに噺家の古今亭志ん生さんがいらっしゃったんです。砧撮影所の2階の部屋で40人ぐらいのスタッフが師匠を囲むようにして『粗忽長屋』の一席を聞かせていただきました。最前列には黒澤監督が座って噺に耳を傾けておられました。監督さんとしては、江戸時代の長屋の雰囲気をスタッフに知ってもらうために師匠を呼ばれたと思います」
昭和の大名人、5代目古今亭志ん生は、1956年に「お直し」で芸術祭賞受賞、1957年には落語協会の会長に就任するなど、当時、全盛期だった。
「そんな落語界の大御所が古い畳の部屋で、しかも手の届くような近いところで一席語る。私は、黒澤監督でなければできないこと、これが黒澤組なのか、とただただ“凄いなあ”と思いました」
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