「ヒゲが伸びたのはそるどころではなかったせい」 雲仙・普賢岳噴火災害の対応に奔走した「ヒゲの市長」の素顔【追悼】
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は8月22日に亡くなった鐘ヶ江管一(かねがえかんいち)さんを取り上げる。
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パフォーマンス扱いされても
1991年6月3日、雲仙・普賢岳で大火砕流が発生、43人が犠牲となった。地元・島原市の市長として噴火災害の対応に奔走したのが鐘ヶ江管一さんだ。
鐘ヶ江さんは、この日も災害危険箇所を見回りし、予定通りに車を進めていれば火砕流に遭っていた。
島原市災害復興課の初代課長を務めた井上莞爾さんは振り返る。
「本当なら死んでいたと自分を責めていました。失ったも同然の命、市民の役に立てるなら何でもやると、言葉と行動が一致していた。噴火が鎮まるまではと、ひげを伸ばし始めたのは祈りの気持ちが込められていた。パフォーマンス扱いされても、ひげを見て全国の人が噴火を思ってくれればと気にしなかった」
ほどなく「ひげの市長」と呼ばれた。70年以上連れ添った妻の保子さんも言う。
「ひげが伸びたのは(火砕流の後)そるどころではなかったせいです。そんな姿は初めてでした。主人は頑固で、こうすると一度決めたら全うしました」
西鉄ライオンズの定宿に
鐘ヶ江さんは31年、島原で「国光屋」という旅館を営む家に生まれる。20歳までに父母を相次いで亡くし、若くして経営を担う。54年、保子さんと見合い結婚。3男2女を授かった。
西鉄ライオンズの島原キャンプの定宿になり、以来、中西太さん、仰木彬さんらとの交友が続いた。
「グラウンドにも出かけて手伝っていました。夜は一緒に飲んだりしておりました」(保子さん)
請われて市や県の教育委員長を務めた。日教組の影響が強い状況下で教育畑と無縁で実直な鐘ヶ江さんの手腕が求められたのだ。
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