「ヒゲが伸びたのはそるどころではなかったせい」 雲仙・普賢岳噴火災害の対応に奔走した「ヒゲの市長」の素顔【追悼】

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毎日のように避難所を回り……

 市会議員の経験もないが、80年、市長に推され、49歳で初当選。島原に懸案はなく、2期目、3期目は無投票当選。だが、90年普賢岳が198年ぶりに噴火した。

 火砕流で犠牲者が出た直後、さらなる困難に直面。法的に住民を強制退去させる「警戒区域」を設定せざるを得なくなったのだ。市街地で全国初のケースだ。

「設定した翌日に再び大規模な火砕流が起きた。退去により犠牲者は出ず、ギリギリ決断が間に合ったとはいえ、立ち退きを強いた精神的な負担は大きく、げっそりやつれた」(井上さん)

 陳情のためたびたび上京。

「地元選出の国会議員や県を飛び越えた面がある。市長は大臣だろうがズバズバ話し、時に涙もろくても信用された」(井上さん)

 島原市の職員を経て現在は雲仙岳災害記念館の館長、杉本伸一さんは思い返す。

「毎日のように避難所を回り市民に声をかけて要望を聞いていた。旅館の経営者だったせいか相手を自然と気遣える人でした。市に届いた励ましの手紙を全部読んでいました」

「5時前には起き、私が作った野菜ジュースをジョッキで1杯飲んですぐ仕事に向かいました」(保子さん)

90歳を超えても追悼行事に参加

 噴火が鎮まる気配のないまま、92年、市長選の年を迎え、立候補せずに退いた。人柄や面倒見は良いが、復興後の具体的ビジョンに欠けるなどの批判も出ていた。

 退任時ひげは約27センチに伸びていた。切ったひげは友人の勧めで能面に使われた。

 国政への誘いを固辞。求められ年間100回以上も講演する生活に。2002年、雲仙岳災害記念館が開設され、名誉館長を務めた。

「ここでの経験は他の地域でも必ず役に立つんだと、記憶や教訓の継承を責務に感じていた」(杉本さん)

「地震や火山の災害が起きるたび、被災者の支援では、皆が納得できる公平性をどう確保するか考え続けていました」(井上さん)

 6月3日の追悼行事に90歳を超えても両手でつえを突き出席。が、今年は体調を崩し保子さんを通じて心境を発表した。

 8月22日、94歳で逝去。

 犠牲者の冥福を祈りながら、穏やかな時期の普賢岳が地元に親しまれ、恵みを与えた事実も忘れなかった。

週刊新潮 2025年9月4日号掲載

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