ずぶ濡れで歌った真冬の一日から30年 中西保志「最後の雨」が90万枚ヒットになるまで
「君の声でレコードを作りたい」で上京
声をかけたのは、キティレコードだったが、その名を知らず「サンリオが俺に何の用や?」と思ったとか。当時の大阪支社の担当者に会いに行ったところ、「東京のプロデューサーが君の声でレコードを作りたがっている」と聞かされた。
「声を聴いてくれてたんや、と思いましたね。当時は本格的にレコードを作るなら関西在住というわけにはいかない時代。東京へ来るよう誘われて悩みましたが、まだ時代はバブルだったので、やる気になったんでしょうね。仕事も人生をかけるほどのことはやってなかったし、人を疑いもしてなかったね。レコードが出せるならいいかな、という思いで行きました。今だったらそんなに簡単にレコードなんて出せるわけないから、蹴ってたと思います。」
売れないままの「最後の雨」を「もう一度売り込もう」
そこから約4年間の下積みを重ね、シングル「愛しかないよ」でデビューしたのは1992年4月のこと。オリコンランキングには入ったものの、ヒットとは言い難い結果だった。そしてその年の8月に2枚目のシングル「最後の雨」発売となったが、9月発売のアルバム「VOICE PEAKS」からの先行カットという位置づけだった。中西としては、自身が作詞を務め、バルセロナ五輪の日本テレビイメージソングとなった「君が微笑むなら」が収録されており、むしろこちらの曲に思い入れがあったという。だが、当初は全く売れなかった。
「五輪が終わると、本当に微動だにしないというぐらい売れませんでしたね(苦笑)。チャートでも水面下で、1992年は年内いっぱい、何の反応もなかったほど。力を入れていたレコード会社のスタッフも、みんなしゅんとしてしまって。それでもこの曲を何とか盛り上げてくれようとしてくれて、じっくり聴いて歌ってもらうという方向性でカラオケで広めようとしたほか、有線放送にも売り込んでいきました」
当時、大阪有線とキャンシステムには、全国1,000カ所といわれる放送拠点があった。さすがにすべてを訪ねるのは無理だったが、地方で行われるライブの機会やキャンペーン取材なども利用して、3分の1ほどは回った。視覚的なアプローチも試みようと、映画監督を起用し絵コンテを作り直したうえで、ドラマ仕立てのプロモーションビデオを撮り直した。
プロモーションビデオ撮影
「忘れもしない、1993年1月7日午前5時半に新宿公園前の集合でした。放水車がとんでもない水量を降らせる中で、両手を広げた僕が、高さ2メートルの台の上に立ち続けたんです。もう目も開けられないほどで、自前のジャケットはずぶ濡れでしたよ(笑)。16ミリフィルムで撮影したため、画面で分かるぐらいの水量が必要だったと後から聞かされましたけれど。その後も外苑前や(鎌倉の)七里ガ浜で同じように水をかけられながら撮影を続けて、終わったのは午後11時半。寒いなんてもんじゃなかった。不思議と風邪はひきませんでしたけどね」
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