「韓国と北朝鮮の代表が同じ茶席で自然とお茶を…」 茶道裏千家「千玄室さん」が考えの違う人々の心をも動かせた理由
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は8月14日に亡くなった千玄室さんを取り上げる。
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良い意味での“俗物性”
茶道裏千家の千玄室さんは、十五代家元、千宗室としての名の方がなじみ深いことだろう。1964年に父から家元を継承し、2002年、79歳で長男に代を譲っている。
京都で30年以上の交流があった宗教学者の山折哲雄さんは振り返る。
「茶道の域を超えて社会に大きな影響を与えていました。それができたのは、千さんに良い意味での俗物性があったからだと感じます。俗っぽいというのではなく、家元自ら率先して実行に移し現場に出るのです。家元は千利休以来の伝統と精神を受け継ぐ役割を果たしていれば、十分尊敬を集めます。そこにとどまらず、経済人や政治家など、畑違いの人たちと積極的に交流し、海外にも出かける。茶道を通じて何ができるか、奥の奥まで見抜こうとした。ほほ笑んでいても猛獣のような目をしていました」
千さんは“一碗(いちわん)からピースフルネスを”という言葉を長年語り続けてきた。
「千さんは特攻隊の生き残りで、世界の平和を訴え続けた、と訃報でもステレオタイプに伝えられていましたが、そんな表層的な人ではありません。千さんから伺った忘れられない話があります。請われて国連本部でお茶を点(た)てた時、めったに一緒にならない韓国と北朝鮮の代表が同じ茶席で自然とお茶を共にして、周囲も驚いたというのです。考えの差異があっても一緒にお茶をいただけばお互いの心を分かち合えるとの信念が相手の感性を揺さぶった。緊張関係にある国々の代表すら動かしたのは、千さんの覚悟と気迫が伝わったからです。お茶を点てるという身体表現が言葉以上の説得力を発した源は死生観です。日本の伝統文化を体現し、世界にこれほど影響を与えた人は戦後日本に見当たらない」(山折さん)
「外交の場でもっと活躍できた」
23年、京都市生まれ。同志社大学から学徒出陣で海軍に入隊。志願し徳島白菊特攻隊の一員となるが、待機命令を受け敗戦を迎えた。
亡くなった戦友への思いは消えなかった。戦争では敗れたが日本の伝統文化には世界に通じる普遍性があると確信し51年に渡米。国内外で茶道普及に突き進む。茶道には“思いやり”“ゆずり合い”“助け合い”といった日本人の心が込められていると平易な言葉で語った。
55年、語学に堪能な登三子さんと結婚、2男を授かる。父の急逝により41歳で家元に。83年には長男の妻に三笠宮容子さまを迎えた。
「豊臣秀吉と渡り合った千利休のような現実の政治と対決する姿勢は感じません。時代と迎合せず自ら権威ぶることもない。道とつくものは血が通っていなければと話していた。千さんを外交の場でもっと活用できたはずだと思います。日本側がこの視点で評価しなかったのはもったいない。海外のほうが千さんの価値を理解していた」(山折さん)
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