日本にインバウンドがもっと増えたら… 古市憲寿が指摘する「観光業に依存する危険性」

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 プーケットの離島で魚売りに出くわした。友人とランチをしていると、若い白人女性が「釣りをしたら魚を取り過ぎちゃったの。よければ買わない?」と声をかけてきた。手元の袋から小ぶりのマグロを見せてくれる。「刺身にもできると思う。たぶんこのお店が調理してくれるんじゃないかな」と提案された。

 どうやら釣り人の間では珍しくない文化なのだとか。「いくら」と聞いたら、「ちょっと友人に相談してくるね」と言って、同行者らしい男の元へと走っていき、何やら議論をしている。数分して戻ってくると「650バーツでどう?」と言われた。日本円で約3000円。

 日本だったら妥当な金額かもしれないが、現地価格としては高い。どうしようかと迷っていたら、ガイドさんが近づいてきて白人女性に事情を聞いた上で、追い払ってしまった。

 ガイドさんの見立てでは、彼女はロシア人の無免許観光ガイドだという。最近、プーケットは「リトル・モスクワ」と呼ばれるくらい、ロシアからの観光客が多い。ウクライナ侵攻後も、ロシア人にとってタイは滞在しやすい国の一つだ。富裕層は不動産投資をする一方で、一般の観光客も多い。今では中国人観光客の数を抜き、1位となった。

 この「リトル・モスクワ」化は経済のために歓迎されるが、同時にあつれきも起きている。その一つが無免許ガイド問題だ。現地に長期滞在しているロシア人が、ロシア人観光客に対する送迎から観光までを全て無免許でしてしまうため、地元の観光業者にお金が落ちないのだという。

 その無免許ガイドたちが、さらに小遣い稼ぎをするために魚も売っているらしい。観察していると、他の観光客にも魚を買わないかと持ちかけては断られている。商魂たくましい。最後は警備員に追い出されていた。

 その様子を見ながら考えていたのは、観光という産業の不安定さだ。日本がインバウンドをもっと増やし、今以上の観光大国になることには賛成である。オーバーツーリズムというが、パリやベネチアほどではない。

 しかし観光に依存し過ぎるのも危険だ。工場の拠点を移すには10年単位の期間が必要だが、観光の場合、自然災害があったとか、近隣で事件があったとかに、すぐ影響を受けてしまう。ロシアとウクライナの戦争が終われば、「リトル・モスクワ」は恐らく衰退していくのだろう。

 ちなみに日本からの観光客が減少しているとガイドさんは愚痴っていた。そもそもプーケット自体の物価が高くなり過ぎてしまい、観光客がベトナムに流れているとのことだ。

 プーケット本島に戻るヨットに乗ると、刺身が用意されていた。ヨットには釣り竿が差しっぱなしになっていて、航行中ついでに釣れた魚を客にサービスしてくれるのだという。あの魚売りにお金を払わなくて正解だった。そして一番得したのは、魚も買わずに、こうしてエッセイのネタにできた僕だと思います。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2025年8月28日号掲載

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