「倭寇」とは何者だったのか──近松門左衛門「国性爺合戦」に描かれた“海の英雄”の正体
「倭寇」といえば、13世紀末から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国の沿岸を荒らした海賊である。日本史の教科書では、豊臣秀吉の海賊禁止令、徳川幕府の鎖国政策によって収束したとされている。
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しかし、東洋史を専門とする岡本隆司・早稲田大学教授は、「後期の倭寇はもともと日本人ではなく中国の人々が中心だったので、日本が“鎖国”したからといって、それで収束したわけではありません。また“海賊”というのも、あくまで中国当局者から見た評価に過ぎず、見方を変えれば“当局の圧政に抵抗する海上勢力”ともいえる存在でした」と語る。
その実情をよく表しているのが、近松門左衛門の代表作のひとつ「国性爺合戦」(1715年)だという。この物語の主人公は、中国人の父と日本人の母の間に生まれた鄭成功(1624~1662年)という「倭寇の末裔」をモデルにしており、大坂竹本座で初演から17カ月続演という大ヒットとなった。
はたして鄭成功とはどんな人物だったのか。なぜ彼をモデルとした物語が日本で人気となったのか。岡本隆司さんの著書『倭寇とは何か 中華を揺さぶる「海賊」の正体』(新潮選書)(新潮選書)から、一部を再編集して紹介する。
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鄭成功は、中国史上の人物としては、かつての日本人にもおなじみの一人だった。
おなじみだったのは、つとに同時代の戯曲・エンターテインメントに登場したからである。18世紀はじめ、近松門左衛門作「国性爺合戦」、元禄時代の上方・浄瑠璃の代表的な演目だった。
「国性爺合戦」の主人公は「和藤内」という。日本に渡った大陸人の鄭芝龍を父に、列島人を母に持つという設定であった。
中国大陸では、君臨していた明朝が韃靼王と結んだ謀反人の李蹈天に滅ぼされる。明の忠臣呉三桂は皇子を救い出して匿い、皇帝の妹は海に逃れた。平戸に漂着した皇女をみつけたのが、二十数年前からこの地でくらしていた鄭芝龍一家。皇女と会って経緯を知った夫婦と子の和藤内は、明朝を復興するため、中国に渡った。
和藤内は途上、竹林に迷い込んで猛虎を退治するなど苦難をへながら、一同ようやく呉三桂と再会する。韃靼の討伐に向かって南京を攻撃、ついに敵を倒し皇子を位に即けて明朝を再興した。かくて波瀾万丈の物語は、めでたし、めでたし、大団円となる。
「国性爺合戦」は正徳5年(1715)に大坂竹本座で初演があってから、17カ月続演という記録を打ち立てた。今も一部は、歌舞伎で上演する。それだけ人気が出たからこそ、以後の日本人に周知となった。
藝能・演劇にうとい筆者では、これ以上くわしく述べることはできないし、またここで論じる必要もあるまい。それでも気づくことはある。
もとより演劇だから、ストーリーはフィクションにはちがいない。それでも全くの絵空事というには躊躇する。ひとまずは東アジアの史実経過をふまえているからであって、上に列挙した人々のうち、鄭芝龍・呉三桂は実名の歴史人物だった。「和藤内」こと「延平王国性爺鄭成功」も、ことさら「国姓爺」を違う用字にしてあるのを除けば、名実とも実在する。列島人の血を引いていたのも、韃靼王=清朝に敵対したのも、南京を攻撃したのも、史実として誤っていない。
それにしても「和藤内」とは、ふざけたネーミングではある。中国側の父、日本側の母をもつ鄭成功は、「わ(和)」(=日本列島)でも「ない(内)」、「とう(藤)」(=唐=中国大陸)でも「ない」という含意で、一種のダジャレ、演藝なればこその遊び心にほかならない。
確かにダジャレではある。しかし、ここまでの論述から考えなおしてみても、やはり興味深い。お遊び・おふざけどころか、歴史の真実をうがっている。血統もさることながら、「和」=列島人でもなければ、「唐」=大陸の政権側でもなかった、というその立場が、まさしく史実経過に即応しているからである。
どうやら戯曲それ自体、ひいては当時の演藝そのものも、江戸時代にいたる列島・大陸の関係・交流の所産でもあった。すべては、いわば「倭寇」の落とし子にほかならない。
鄭氏政権の興起
そんな演藝・フィクションから、史実にたちかえってみよう。
鄭芝龍は17世紀はじめに生まれた福建人で、主として列島との取引に従事した貿易商人であった。マカオに滞在してカトリックの洗礼をうけたこともある。千にも上る武装船団を有する勢力をほこり、平戸にも拠点を有していた。それなら、帰属不明の「境界人」にして、本質はかつてしばしば蜂起した「倭寇」と何ほども変わらない。
16世紀の末から17世紀の初めにかけて、大陸側で明朝が海禁を事実上緩和し、また列島側でも、豊臣統一政権が海賊停止を徹底したため、中国大陸の王朝政権が「倭寇」と呼んだ沿海の騒擾は、ひとまず鎮静化している。けれどもそれで、海上武装勢力が消え去ったわけではない。鄭芝龍はその代表的な存在なのである。
その鄭芝龍はやがて列島から台湾、ついで福建沿海に本拠を移し、台湾に入植したオランダ東インド会社との貿易で、巨万の富を築いた。もちろん日本列島とも、直接の交易に従事している。そのかれが平戸藩士の娘との間にもうけた息子が、鄭成功であった。
清朝が1644年、明朝滅亡後の北京に入ったのち、まもなく江南に進軍してくると、明室を奉じる残存勢力「南明」は、福建省にのがれて鄭芝龍の勢力にたよって、清朝に対する抵抗を組織しようとする。この勢力が日本の江戸幕府などに、しばしば援軍を求めた運動、いわゆる「日本乞師」は有名で、列島とのコネクションをかいま見せる史実ではある。「鎖国」に舵を切っていた日本側が応じるはずもなく、もとより運動は成功しなかった。
南明はまもなく清軍の攻撃を受けて内訌をくりかえし、勢力の維持すら危ぶまれてくる。そのため、形勢に分がないとみた鄭芝龍は、南明を見限って清朝に降った。
これに異をとなえたのが、息子の鄭成功である。頑として清朝への帰順を肯んぜず、父親と袂を分かち、廈門(アモイ)に拠って一族の武力を掌握し、南明政権に与した。廈門はもと「倭寇」の根拠地で、かつて明朝が海禁を緩和した月港の近くに位置する。その後継都市といってよい。
清朝は鄭芝龍に息子の降服実現を執拗に求めたものの、工作は失敗に帰する。鄭芝龍はけっきょく処刑された。かたや鄭成功は即位した南明の皇帝から優遇をうけ、明朝の国姓「朱」まで賜っている。「国姓爺」という呼び名の由来であって、感激したかれは、生涯を清朝との戦いに捧げた。東シナ海の制海権を握って、海上から大陸の清朝を攻撃する、というのがその基本戦術である。
1659年には大々的な攻勢に出て、浙江沿岸から北上、長江を溯行して南京に迫ったものの、最終的に敗北を喫した。鄭成功は勢力を立て直すため、1661年、台湾で勢力をひろげていたオランダ人を駆逐して、本拠をそこに移す。
海禁の復活と鄭氏の敗亡
その大陸政権、明朝を後継した清朝は、外洋で戦える兵力の乏しいこともあって、鄭成功の勢力には、ほとほと手を焼いていた。南京ではどうにか撃退したけれども、いっそう効果的な対策を打たねばならない。
つとに海上交易を禁じる海禁令を発布していたのも、鄭氏の活動に制限を加えるためであった。1650年代も末、南明の勢力もほぼ鎮定し、大陸がひとまず清朝に帰順したのを見計らって、その海禁をさらに徹底する。順治18年(1661)、沿海での交易・漁業を禁じたのみならず、沿海の住民を海岸から内陸に強制移住させる命令を発した。著名な遷界令である。
もちろん鄭氏の勢力と沿海・内地との連携を断ち切る目的であり、一種の大陸封鎖だった。そこまでやらなくてはならないほど、清朝は危機感をもっていたのである。海上の鄭氏に劣らず、沿海地域の向背が重要だったかもしれない。
遷界令発布の翌年、「国姓爺」鄭成功は、志半ばで世を去った。享年39。けれどもその海上勢力は、かれ亡き後もなお健在である。台湾の鄭氏政権は「反清復明」の姿勢を貫いて、南明の年号「永暦」を使用しつづけ、以後2代にわたり、四半世紀近くその勢力を保って、大陸政権の脅威でありつづけた。
あたかも大陸内地では、清朝にいったん帰順していた南方の漢人軍閥の反乱、いわゆる「三藩の乱」が起こった時期に重なる。もちろん鄭氏はこの勢力と通じたから、清朝が恐れた海上・沿岸の連携も生じた。遷界令もその政治的軍事的な目的には、さしたる効果がなかったとみるほかない。
しかし鄭氏政権も苦しかった。東南アジア島嶼部へ進出し、活動を活溌化させたものの、試みた大陸進攻は成功しなかったし、やがて本拠の廈門を放棄したばかりか、主力の艦隊も大半を失うに至る。後継争いの内紛も重なって、大陸の反清勢力が衰えるにつれ、形勢が次第に不利に傾いてゆくのは、いかんともしがたい趨勢であった。
そんな鄭氏政権との戦いの前線に立ってきた清朝の水軍司令官が、施琅という人物である。もと鄭芝龍の部下だった。しかし家族を鄭成功に殺されたことから、清朝に降った経歴を有する。この施琅が1682年、廈門で艦隊を編成し、鄭氏政権に対する総攻撃の責任者となった。
恩讐・順逆という人間関係ながら、個人の出処進退にはとどまらない。施琅の行動を地域に置き換えていえば、いったんは海上勢力と通じた沿海地域が、あらためて大陸に帰服したわけで、いわば同じ類型の集団が海上の鄭氏と沿海の清朝に分かれて対決したともいえよう。
その結果、施琅の軍勢が翌年、澎湖島を急襲して鄭軍をやぶり、戦力のほとんどを奪って勝利を収めた。鄭氏政権はもはや孤立無援、無条件降伏のほかない。かれらの拠った台湾も、こうして清朝の版図に属することになった。台湾が大陸政権の統治を受けるのは、史上はじめてのことである。
鄭成功とその後継政権の存在・活動に、大陸の北京政権は大いに手こずった。けれども清朝の皇帝は、降服した叛徒の鄭氏を厚遇する。前代明朝の遺臣として、最後まで忠義をつくしたと称賛した。
本気でその忠義を嘉したのか、政治的に王朝政権への一般的な忠義、ひいては清朝自らに対する具体的な漢人の忠誠を期待したのか、思想的に前代明朝からの正しき継承、つまり正統を意識したものなのか。すべて兼ねていたかもしれないし、あるいは別のねらいもあったかもしれない。
ともあれ義挙・忠臣という評価は、いかにも日本人好みであった。戯曲「国性爺合戦」の筋立て・評判に大いに影響したであろう。鄭成功はかくて日本人にとって最も著名な海の英雄となったわけである。
※この記事は、岡本隆司『倭寇とは何か 中華を揺さぶる「海賊」の正体』(新潮選書)(新潮選書)の一部を再編集したものです。










