「中国史上最も恐ろしい母親」に口答えできないマザコン皇帝の末路

国際 中国

  • ブックマーク

 テレビで人気の韓流や中国ドラマ。その時代劇の中で描かれている複雑な人間関係や権力闘争で定番なのが、皇后や側室、宮女たちの間で繰り広げられる物語である。

 現代社会にも通じる興味深い人物像が描かれるが、中でも、一人の女性の嫉妬と復讐心が歴史を大きく動かしていくストーリーは、人気があるようである。

 実際の歴史においても、女性同士の争いが国家の大事を左右することがある。例えば、前漢の創始者・劉邦(りゅうほう)の皇后と妃の確執は、その最たる例と言っていいだろう。中国史家で関西学院大学名誉教授の阪倉篤秀氏の新刊『中国皇帝の条件 後継者はいかに選ばれたか』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介する。

 ***

◆皇后・呂氏の憎しみ

「あなたのような母の子では、とても皇帝としてやっていけません」

 漢の高祖劉邦が亡くなった翌年、生母である呂(りょ)皇后の所業をみせつけられた、第二代の恵帝劉盈(けいていりゅうえい)の言葉である。これは面と向かって、声を張って放たれたものではなく、目を伏せ、うめきにも似たつぶやきだった、と思われる。

 それは呂皇后の所業を確認すれば、分かってもらえるはずである。

 劉邦亡き後、皇后であった呂氏(呂雉〈りょち〉)は皇太后となり、恵帝の後見人として、朝廷内で隠然たる権力を誇った。ただ彼女には、どうしても存在自体を許すことができない人間がいた。劉邦が漢王(かんおう)となり勢力拡大に邁進した頃から、それまで夫に尽くしてきた自分に代わって劉邦の寵愛を一身に集め、第3子となる劉如意(りゅうにょい)を出産していた戚(せき)夫人である。

 尽くしに尽くしてきた自分ではない女性に入れ込むという、夫の仕打ちが許せないのと同時に、なにより我が子の劉盈より5歳下の劉如意がいつなんどき皇太子の地位を奪うか、心配でたまらない。劉邦が即位したあとも、戚夫人は側に仕えて意を通じていることも耳に入っていた。

◆戚夫人の哀れな姿

 さらに劉邦は一度ならず、側近の臣下に皇太子差し替えの意向を漏らしたとも聞くし、そのような動きを察知すれば、呂氏は策を弄してこれを阻止してきた。しがらみのある女を許せるはずがない。これはもはや怨念というべきものである。

 それでも劉盈は無事に即位できた。呂氏の心配は杞憂に終わったかにみえたが、これをしても呂氏の戚夫人への怨みは治まらなかった。劉邦存命中は手が出せなかったからこそ、その死後に呂氏の怨みは形となって現れた。

 高祖の宮女を整理するのにかこつけて、戚夫人にあらぬ濡れ衣を着せて罪に落とし、その髪を剃り落としたうえで宮中の宮女専用の幽閉所に隔離し、加えて、趙王として邯鄲(かんたん)にいた劉如意を長安に呼び戻したのである。これで怨みを晴らした、といいたいところであるが、事はこれですまなかった。その翌年、恵帝が早朝に狩りに出かけて宮中不在となったのを好機と、劉如意に毒を盛り殺害してしまう。

 呂氏の復讐はこれで終わらない。戚夫人を幽閉所から引き出し、宦官に命じてその手と脚を切断し、さらに目と耳を使いものにならないようにして(人てい〈じんてい〉)、厠(かわや)に放置させた。想像するのもおぞましい場景である。それでも気が済まず、呂氏は息子劉盈をわざわざ呼びだして、「お前のためにしてやった」とばかりに、彼の目で戚夫人の哀れな姿を確認させたのである。

◆劉邦に尽くす呂氏

 さて、亭長であった劉邦と呂氏の出会いである。話は呂氏の父親、名前が残らないので呂公(りょこう)とされる人物が、人間関係でトラブルになり郷里を出奔し、沛(はい)に移住してきたことから始まる。呂公はいっぱしの身分だったようで、沛の県令(けんれい・県の副長官)が知己であったことから、その主催で歓迎の宴会が開かれることになった。

 州に次ぐ上級の行政区画の高位者が催す宴会では、亭長ごときではその他多数の扱いであったが、劉邦は、用意できるはずもないのに「お祝金一万」と申し出て、まんまと堂上の席を手に入れた。豪傑劉邦の面目躍如といえる。

 これを「非凡の人物」として認めたのが呂公で、なんとその場で娘との婚姻を申し入れた。当時、劉邦に妻はいないながらも1人の息子がおり、呂公の妻は好ましい相手ではないと反対したが、「女の口出しすることではない」と、ジェンダー問題に慎重であるべき昨今では顔をしかめられるようなひと言でしりぞけ、強引に二人を結び付けた。

 下級官職である亭長の収入では生活は楽ではなかったが、豪放磊落を旨とし、広い交友関係を好む劉邦の浪費に不満をぶつけることもなく、呂氏は義父母も含めて劉邦に仕えた。彼が泥酔して、勾留すべき罪人を逃亡させてしまい、上級官庁からの譴責を恐れて山中に逃げ隠れた時には、夫の潜伏先への遠路をいとわず、毎日、食事と着替えの衣服を届けたという。

「糟糠(そうこう)の妻」という表現があり、これに匹敵するものとして彼女の献身ぶりを美談にする気はないが、尋常ならず夫に尽くす妻であった。そして二人の間に、女児に続いて男児が生まれた。これが劉盈である。

◆項羽と劉邦

 その翌年、秦末の大乱の流れに乗って、劉邦は仲間を集めて兵を挙げ、自らを「沛公(はいこう)」と称した。まだ一派を構えるには実力不足であったので、楚の王族出身で当時大きな勢力を持っていた項梁(こうりょう)の配下に入った。その後、項梁が亡くなり甥の項羽(こうう・本名は項籍〈こうせき〉)がそのあとを継いだ頃から、劉邦は自立的行動を活発化させ、反乱勢力のひとつに数えられるまでになる。

 当時、秦は宦官趙高(ちょうこう)が二世皇帝胡亥(こがい)を自害させ、すでに子嬰(しえい)の時代に入り崩壊寸前で、都の咸陽(かんよう)がある、函谷関(かんこくかん)と武関(ぶかん)に守られた関中(かんちゅう)に先に誰が入るかが、雌雄を決するといっていい状態にあった。先陣を切ったのは劉邦であったが、遅れた項羽が先に咸陽に突入して、子嬰を亡きものとし、覇権を握ることになる。

◆呂氏の捕縛と戚夫人の出産

 その後、項羽の不在を好機とみて楚の拠点彭城(ほうじょう)を襲撃した劉邦は、急ぎ舞い戻った項羽の迎撃を受けて敗走し、追撃されて窮地に陥るという憂き目にあう。この時、沛が襲撃され、あやういところで劉盈姉弟は救い出されたが、呂氏が捕らえられ、2年後に釈放されるまでは、項羽側の捕虜となった。

 劉邦が挙兵して各地を転戦していた時期、呂氏は沛で家を守っていたが、ここで戦乱に巻き込まれて災難に遭ったことになる。一方、劉邦の身辺に仕えていたのは戚夫人で、ちょうどこの頃、戚夫人は劉如意を出産している。ここでの境遇の違いが、二人の軋轢をさらに大きなものとしたことは疑いようもない。

 ただ、この段階で、劉邦は劉盈を太子、すなわち自身の名乗る漢王の正統な後継者と明言して、呂氏との関係をなんとか取り持とうとしているのは、なかなか人間臭くていい話ではあるが、それが最終的に戚夫人の「人てい」につながるとは知る由もなかった。

◆資質に欠ける劉盈

 劉邦は漢王朝の皇帝即位と同時に、呂氏を皇后に、劉盈を皇太子にしたが、正妻を皇后に推挙するのは一夫一妻制からして当然のことであり、嫡長子を優先するのも周代後半以降からの伝統に則るものである。形式的な面からいえば、最もオーソドックスな選択が行われたことになる。

 ただこの選択は、劉邦の本意であったかとなると、そうとはいえない。皇后という呂氏の地位は、正妻で艱難辛苦をともにしてきたことからしてゆるがせにはしにくいものの、立太子については他の皇子を選択する余地がないわけではない。

 中国における嫡長子優先は「暗黙の了解」に基づく伝統に過ぎず、絶対的な規則ではない。劉盈の立太子は、呂氏のあとには引かぬ強い希望に従った結果でしかなく、劉邦の本意は劉如意にあったとみるべきであろう。彼が、側に仕えて寵愛を独占する戚夫人の生んだ子であるだけではなく、なにより劉邦は劉盈のことがあまり気に入っていなかったのである。

◆我が子は「仁弱」

 劉邦は劉盈を評して「仁弱(じんじゃく)」としていた。たったの二文字だが、父という立場から我が子を評する言葉として意味を敷衍すると、「優しくて人柄はよく、思いやりが深いのはいいとしても、人としての強さがなく、相手を威圧して服従させることはとてもできない」ということになる。

さらに重ねて「我に類せず」、すなわち「自分とは人間のタイプがまったく違う」ともした。皇帝でもある父親の自分に対するこのような評価が息子を打ちのめし、絶望感から萎縮させたことは疑いない。父は強く偉大で押しも押されもせぬ存在であり、一方、母は自分をかわいがり後ろ盾になってくれるものの、たくましくて強く、皇帝となった夫に対しても頑として譲るところがない。両親の存在がそのまま重圧となる状況下で、まだ10歳を過ぎたばかりの子が生きていくのは、なかなか大変なことであった。

 劉盈の器に不満を抱える劉邦が、その心情を側近の臣下に吐露したのは、即位から4年後のことになる。「皇太子を、自分とタイプが似ている劉如意に差し替えたい」と、内々に相談したが、側仕えの者からは「年長者を斥けて、幼年者を立てるのはもってのほか」と、年長者優先を盾に聞き入れてもらえなかった。おそらくこの話は、呂氏の耳にも入り、二人の間に以前よりも増して険悪な雰囲気が漂ったと思われるが、劉邦はあきらめきれなかった。

◆母の呪縛に苦しんだ人生

 紀元前195年、抵抗を続ける淮南王英布の反乱を平定するための親征に出た劉邦は、流れ矢にあたって負傷し、これがもとで病床に伏した。先は長くないと悟った劉邦は、ここでもう一度、皇太子交代の思いを臣下に伝えたが、「死を覚悟してでも反対する」と阻止され、思いはついにかなわなかった。このことを病床に見舞った戚夫人に告げると、彼女は泣き伏したというが、これが呂氏の耳に入ったことも「人てい」の伏線になったとみえる。

 この年に劉邦は望み叶わぬまま亡くなり、恵帝の時代となる。劉盈は16歳で成人といっていい年齢に達していたが、父の自分への評価や、2度にわたる皇太子差し替えの動きを知らぬはずもなく、とても政権を主宰できる精神状態ではなかった。

 それもあって皇太后となった呂氏が後見として控えると同時に、劉邦の残した臣下達が脇を固める体制が準備された。そのなかで、「人てい」事件は起こった。

 もはや抜け殻に等しい状態で形ばかりの皇帝となってしまった劉盈は、即位から7年にしてその生を終える。皇帝への即位は母のおかげとはいえ、その母の呪縛に苦しんだ人生であった。

 ***

関連記事【始皇帝はなぜ「人柄がよく、剛毅で武勇と評判の長男」を皇太子に指名しなかったのか?】では、秦の始皇帝の皇位継承の事例から後継者を選ぶ難しさを明らかにする。

※本記事は、阪倉篤秀著『中国皇帝の条件 後継者はいかに選ばれたか』(新潮選書)の一部を再編集して作成。

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。