「NHKらしさ」「ドラマチックな事実」から遠く離れて…YouTubeで「私語り」が氾濫する時代に「昭和ノンフィクション」に何を学ぶべきか

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「決定的な事件が起きない」

 2作目は沢木耕太郎さんの『一瞬の夏』を取り上げましょう。

『一瞬の夏』は、1981年に新潮社から刊行されました。ボクサーで東洋ミドル級チャンピオンだったカシアス内藤のチャンピオン陥落後の「カムバック」を描きます。プロモーターとしても奔走する「私」、つまり沢木さんの視点で描かれた作品ですが、読み返してみると、改めてすごい本だなと感じます。この作品の特徴は「決定的な事件が起きない」ことです。

 チャンピオンベルトを失った後、カシアス内藤が華麗に復活したかというと、別にそうではない。沢木さんと一緒にカシアス内藤が復活する道を歩いていくように見え、様々な準備をするのだけど、最後の最後で結局のところ負けてしまう。しかも、その負け方が劇的なものでもなくて、言葉を選ばずに言うなれば準備をしても力不足で惨敗したという話なのです。一般紙ならまず掲載されず、スポーツ紙でも結果が載ればいいくらい。専門誌が多少のスペースを割くくらいでしょう。

 事実だけを見ると何のドラマもない。にもかかわらず、それをすごくドラマチックに描いている。ドラマチックな事実に頼らなくても、沢木さん自身、そしてカシアス内藤の内面を描き、再戦を果たすまでの道のりこそが最大のドラマになっている。

 何か事件が起きて、その出来事の背景や原因を追っていくというスタイルが通常のノンフィクションの手法です。でも『一瞬の夏』は逆なんですね。事件は起きてない。何かが起こりそうだけど、起きない。ただ、沢木さんとカシアス内藤、そして、密接に付き合うことになるカメラマンとトレーナーのエディーさんという、この4人の人間関係が描かれていく。みんながカシアス内藤という人間をカムバックさせるということに熱中していて、その「熱源」を徹底的に描くことで、作品として成立しているのです。

 テーマの選び方も決してジャーナリスティックではありません。カシアス内藤が復帰するかしないか、スポーツジャーナリズムの世界の人間もそれほど関心は高くはなかったでしょう。でも、沢木さんはそうじゃないと考えた。そこに秘められた「何か」がある、と考えたのです。

「私語り」が増幅している

 SNSが登場した近年、「私」が氾濫しているように思います。自分はこう思った、自分の内面はこうだ、私の物語を聞いてください、という欲求がSNSやYouTubeコンテンツという形で表出し、ウェブ空間で流通している。「私語り」が増幅しているように思います。

 でも、実はこの「私語り」には、私以外がいないと深い話になり得ないということを『一瞬の夏』は示している。沢木さんは、浅沼稲次郎暗殺事件を描く『テロルの決算』を「私」が出てこない完全三人称で書いています。沢木さんは作品によって描き方を変えていく「方法の作家」なのです。

 第二次大戦から敵国の中国大陸に「密偵」として潜入した若者を描く『天路の旅人』は、一人称と三人称を巧みにミックスした作品になっています。今までの沢木さんの作品では一人称で描く、三人称で描くなど方法の徹底が行われていましたが、本人はさらに先に行ってしまい、人称をミックスさせ「自由に書く」という境地にたどり着いていました。常に書き方、方法論が変化している、そういうことを自覚的にやられているのが沢木作品の面白さであり、凄みなのです。

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 後編「『田中角栄』権力の源泉は『金庫番の女性』だった…51年前の“調査報道”から『庶民宰相』を令和に読み解く意義とは」では石戸氏が挙げる3冊目のノンフィクション作品を現代の調査報道という視点で解説している。

デイリー新潮編集部

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