【べらぼう】失脚して城まで徹底的に破壊された田沼意次 一方、松平定信の城がたどった運命は

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壊されなかった白河小峰城だが

 一方、松平定信の居城であった白河小峰城は、定信が築いたわけではない。東北には珍しい総石垣造で、盛岡城、会津若松城と並び「東北の三名城」とも呼ばれるこの城は、江戸初期には完成していた。寛永4年(1627)、10万石の城主として棚倉(福島県棚倉町)から白河に移封になった丹羽長重、すなわち、織田信長の家臣だった丹羽長秀の長男が、幕府の命令で既存の城に大改修を施した城が、幕末までほぼ維持された。

 この改修時に本丸の北東隅に建てられたのが、事実上の天守であった三重櫓だった。戊辰戦争で焼失したが、平成3年(1991)、木造による伝統工法で復元され、白河のシンボルになっている。

 松平定信は老中を失脚後、白河藩政に専念し、文化9年(1812)に家督を長男の宗永に譲るが、その後も藩政の実権は握りつづけた。当時としてはかなり新しい重商主義的な政策を矢継ぎ早に打ち出し、御三卿や御三家ら守旧派の恨みを買った田沼意次は、失脚とともにすべてを失った。一方、8代将軍吉宗の孫である定信は、幕府の中枢で失脚しようと、大名としては安泰だった。むろん、城も壊されることもなかった。

 ちなみに、白河小峰城は江戸時代を通じて、城主がめまぐるしく入れ替わった。大改修した丹羽家が寛永20年(1643)、二本松(福島県二本松市)に国替えになった後、榊原、本多、奥平、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)、阿部と、7家21代もの城主の交代があった。定信が継いだのは久松松平家だった。

 その間、安泰だった白河小峰城だが、慶応4年(1868)の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟軍と新政府軍の攻防の舞台となった。同盟軍が惨敗して城の建造物がほとんど焼失してしまったのは、田沼時代の改革を否定した守旧派の末路のようにも見えなくもない。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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