【べらぼう】失脚して城まで徹底的に破壊された田沼意次 一方、松平定信の城がたどった運命は

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痕跡がほとんど残っていない「相良城」

 かつての歴史教科書などの影響もあって、賄賂まみれの政治家と清廉な改革者というイメージが定着している2人。だが、「田や沼や/濁れる御世をあらためて/清く澄ませ/白河の水」と狂歌に詠まれた期待が、「白河の/清きに魚も住みかねて/もとの濁りの/田沼恋しき」と、田沼時代を懐かしむ内容に変ったことは、両者の政治が世間にどう受け止められたのかを表している。

 では、城はどうだろうか。

 失脚した田沼意次は、まだまだ処分が甘いという声が御三家や御三卿から上った挙句、すなわち松平定信が老中になった天明7年(1787)の10月2日、蟄居させられた。それだけではない。家督は孫の意明に譲ることを強いられ、残りの所領3万7,000石も居城の相良城(静岡県牧之原市)も召し上げられ、奥州下村藩(福島県福島市)にあらためて1万石をあたえられ、転封になった。

 没収された相良城は現在、本丸には牧之原市史料館が建つが、城を思わせる遺構はない。旧二の丸は小学校の、旧三の丸は高校の敷地になり、城の痕跡といえば、城内と海を結んで軍事上の役目も負っていた「仙台河岸」にわずかに残る石垣ぐらいだ。

 というのも、新規築城を許された意次が明和4年(1767)から築きはじめた相良城は、それからわずか20年で徹底的に破壊されてしまったのである。

意次失脚後に徹底して破壊

 意次は享保20年(1735)、父が死去して家督を継いだとき、石高は600石にすぎず、むろん自分の城など縁がなかった。だが、とんとん拍子で出世を重ね、明和4年(1767)に従四位下となって2万石に加増され、相良に城を築くことを許された。城域は東西約500メートル、南北約450メートルで、北東を流れる萩間川と北西を流れる天の川を天然の外堀とし、その内側に三の丸、二の丸、本丸の堀をめぐらせた。

 石垣は明和7年(1770)6月には完成したようだが、同9年(1772)に江戸で明和の大火が発生し、神田橋の田沼屋敷も焼失。築城工事は先延ばしになり、安永9年(1780)にようやく竣工した。当時、天守の新造は原則として認められなかったが、相良城の本丸には事実上の天守である三重櫓が建った。意次が将軍からいかに信頼されていたかがわかる。

 ほかにも5棟の櫓が建つほか、前述のように三重の堀がめぐらされ、総石垣で固められた本格的な城郭だった。城下町も京都を模した碁盤の目状に整備され、道幅も駿府(静岡県静岡市)にならって4間(約7.3メートル)に拡幅された。幕府の中枢にいた意次は、「地元」になかなか戻れなかったが、城が竣工した安永9年には、落成式などのために相良を訪れ、10日間ほど城内に逗留している。

 だが、それからわずか7年、相良城の召し上げが決まると、天明7年(1787)11月23日、「収城使」の任を負った岸和田藩主の岡部長備が2,600人の大名行列を組織してやってきた。そして、天明8年(1788)1月16日から2月5日にかけ、櫓、御殿、門、長屋、役宅から塀にいたるまで、すべて解体された。その年の7月24日、意次は失意のまま江戸で没するが、相良城はその後も時間をかけて、石垣まで徹底的に破壊された。

 後藤一朗氏は『田沼意次 その虚実』(清水書院)にこう書いている。「すでに田沼は去り、城は完全に幕府のもの、国の財産である。何もわざわざ手をかけて潰すこともなかろうに、非常識きわまる愚策で、狂気のさたと言うほかない」。

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