小栗旬、遠藤憲一を輩出?老舗養成所が破産 タレントを広告募集…元社員が見た「夢を売る」ビジネスの舞台裏

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スポーツ紙に「子役募集」「タレント募集」の広告

 筆者は今回の破産に「令和の芸能界」で俳優やタレントの発掘・養成、さらにはマネジメントも含め舵取りすることの難しさを示していると感じた。その背景を理解するためにも、まずは「宝映」の前身だった「東京宝映テレビ株式会社(以下「東京宝映」)」について語らなければならないだろう。

 同社は1977年に設立されたが、その母体は1960年に発足した「劇団フジ」だった。同劇団には、日本を代表する名監督・稲垣浩監督や俳優・杉狂児氏らが関わっていた。この成り立ちを考えると、東京宝映の設立には、募集や養成、マネジメントなどの事務的な業務を担う事務所としての役割が求められていたのだと想像できる。劇団と芸能プロの機能を兼ね備えたのが東京宝映だったわけだ。実際、名誉会長は稲垣監督が務めていた(劇団フジ自体は脚本と演出を担当していた田村丸氏が運営を担っていた)。本社事務所は東京・飯田橋から神楽坂を上がったところの新宿区白銀町に、劇団は道路を挟んで向かいの新宿区津久戸町にあった。

 実は筆者は、そんな「東京宝映」の業態に興味を持ち、入社したことがある。1980年のことだ。当時まだ芸能界の知識は耳学問程度だったので、関心と言うよりも好奇心の方が強かったように思う。今になって良かったと思えるのは、配属先が「募集」「総務」「芸能」「劇団」ではなく、ビジネスの裏方を覗ける「教務課」だったことだ。

「東京宝映」のビジネスは、俳優やタレントを街中などでスカウトするのではなく、まずスポーツ紙や情報誌「ぴあ」、タレント雑誌などに「子役募集」「タレント募集」といった広告を出稿することから始まっていた。独自の劇団を有していたため、入所すると、劇団が内部で実施していたオーディションを経て舞台公演に出演するという流れだった。とにかく演技実績を重ねていくことが重視されており、これは、一般的な芸能プロではできない手法だったはずだ。

 募集広告は通常、スポーツ紙の場合は芸能欄の下に5段広告として掲載していた。時には朝日新聞にも出稿し、スポーツ紙では駅売りのみとなる休刊日に最終面1ページを使った全面広告を展開することもあった。当時、東京宝映の香山新二郎社長に広告費について尋ねたことがある。1回に3,500~4,000万円を注ぎ込んでいると明かし、「そんなのは大した金額じゃない。うちで大物に育てれば、その何倍にもなる」などと豪語していた。なるほど、広告費も投資と考えれば安いものなのだろう。

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