満州で行方不明の妻が7年後に生還、後妻と軋轢が…「戦死」「行方不明」のはずが生きていた人たちの戦後秘話 #戦争の記憶

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「戦死公報」が出たあとに生還

 出征した旧日本軍兵士たちの「戦死」あるいは「生死不明」は、「戦死公報」という通達によって家族に伝えられた。だが、激戦地や混乱が大きかった地域では正確な状況把握が難しく、公報が出されたあとに無事生還したという例がある。

 その数は「1000人を下るまい」と報じたのは、終戦から25年、1970年8月の「週刊新潮」だった。厚生省援護局(現在の厚生労働省社会・援護局)の統計による数字である。東京五輪の6年後、大阪万博開催中の当時は高度経済成長期の終盤。巷は活気づき、戦争の記憶が少しずつ薄れ始めた時期だった。

 そこで「週刊新潮」は、「戦死」「生死不明」から“生還”した人たち、あるいはその関係者から話を聞いていた。当時の取材対象者は40~60歳代。新たな人生を歩んでいた彼らだが、戦争の記憶を語る言葉にはまだ、生々しさが残っている。

(「週刊新潮」1970年8月15日号「『生きていた英霊』千人のなかの明暗さまざま」を再編集しました。文中の年齢等は掲載当時のもの、「※」は今回新たにつけられた注釈です)

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戦後の谷川岳遭難第1号

 群馬出身の清水清吉さんは山好きの青年だった。地元の尋常高等小学校を終えると、中島飛行機の工場に働きに出ていたが、仕事の合間にピッケルを作るのが趣味。休日にはそれを手に谷川岳へ登るのが唯一の楽しみだった。

 そんな清水青年が「赤紙(※臨時召集令状の俗称)」を受け取り、中国北部の華北地域に出征したのは1944(昭和19)年のことである。翌1945(昭和20)年、つまり敗戦の年の5月に彼はその地で“戦死”し、葬式は村葬をもって盛大に行われた。

 ところがその翌年2月、彼はひょっこりと帰って来たのである。姉の清水ときさん(48)がそのときの模様を語る。

「父親が庭で仕事をしていると、田んぼの向こうから真っ黒でボロボロの軍服を着た男がゆっくり畦道を歩いて来るんです。そして近くに来ると“清吉です、ただ今戻りました”。初めは全然信じられなかったです」

 帰還者の常だが、家に着くとよく食べる。清水青年も「うめえなあ、うめえなあ」といいながら、一週間というもの食べては寝、食べては寝の連続だった。

 が、ひと月もすると、またぞろ“山の虫”がうずき出したらしい。畑仕事の合間を見つけては山登りしていたが、1946(昭和21)年9月8日、谷川岳の一ノ倉沢で仲間1人とともに転落死した。この時22歳。戦後の谷川岳遭難第1号となったが、姉のときさんは「弟には山に登ることしか生きがいがなかったんでしょうから、仕方ない」とあきらめの表情である。

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