満州で行方不明の妻が7年後に生還、後妻と軋轢が…「戦死」「行方不明」のはずが生きていた人たちの戦後秘話 #戦争の記憶

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自分の遺骨を「取りに来い」と通知が

 フィリピンのルソン島サリオクで“死亡した”館岡義一さん(48)の場合は、完全な連絡ミスだった。1944(昭和19)年、千葉県柏の教育隊に入隊し、半年間教育を受けたのちに満州へ。満州から飛行機を取りに内地へ戻ったところで空襲にあい、四式戦闘機を竹ヤブに退避させようとした時にふり落とされて意識不明になった。

 館岡さんは入院した。その間に、彼の属する飛行第一戦隊は南方に向けて出発。入院が彼を助けたのである。

 ところが、その彼のところへ「昭和20年7月25日、時刻不明、ルソン島で死亡……」という「戦死公報」が届いたのだ。ご丁寧に死亡地点を示す地図とともに、「遺骨を区役所まで取りに来い」という通知書も添えてあった。

 そこで区役所へ行くと、「ああ、生きてたんですか、お骨はうまく処理しますから……こりゃどうも」と至極アッサリした調子で、“死んだはず”の当人は二度驚かされたという。

 館岡さんはのちに町工場を経営するなどしたがうまくいかず、現在は会社員。しかし、彼にしろ、中野さんにしろ、おなじように口にするのは「一度死んだんだ。これからはどんな逆境にあっても負けないぞ」であり、「戦争などあってはいけないが、自分の子供たちに別のかたちでこういう経験をさせたい」であった。

デイリー新潮編集部

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