満州で行方不明の妻が7年後に生還、後妻と軋轢が…「戦死」「行方不明」のはずが生きていた人たちの戦後秘話 #戦争の記憶
行方不明の前妻が帰国して
“生きていた英霊”とは多少趣を異にするが、黒木弘一さん(65)の場合は、妻のシゲ子さん(63)のほうが悲劇であった。
終戦の年の5月、満州で妻と2人の子を残して応召(※召集に応じて軍隊に入ること)した黒木さんは、1947(昭和22)年4月、妻子とは別に復員(※軍務を解かれて帰還すること)した。終戦のドサクサで妻子の行方は不明だった。応召前に勤めていた満州炭鉱の本社(東京)へ問い合わせたり、NHKの「尋ね人」番組で捜したが、杳(よう)としてわからなかった。
養子である彼は、妻の実家で居候生活をしているが、「シュウトメはいるし、妹夫婦が子供づれで来てるし、何かと気づまり」で、やがて炭焼きのために山にはいったり、石工をしたりした。
彼が見合いを勧められて、2人の子の母親である現在の妻(58)と結婚したのは1948(昭和23)年。ところが、1952(昭和27)年になって、前の妻が興安丸(※中国や旧ソ連からの引き揚げ船)で帰って来たのである。お定まりの女同士のアツレキ。現在の妻が当時を振り返っていうのだ。
「私、引き揚げて来たばかりの彼女のところへ米2升持ってアイサツに行ったんです。そしたら彼女、“今日、弘一はアンタの亭主だが、前は私のもの。アンタは若いんだからまた亭主を捜したらいい”とこうです。こうなれば売られたケンカだ。私もいってやったわ、“私の目のあいているうちは、子供と弘一は私がメンドウみるわ”って」
“女丈夫”らしい。彼女はそれから夫とともに石工まがいの仕事をし、前妻の一家に月4000円を4年間、送りつづけたという。離婚が正式にととのったのは1965(昭和40)年。黒木さんは、妻の連れ子の招待で万国博(※1970年の大阪万博)見物に出かけて、けっこう楽しそうだった。
現地人になりすまして生活していたが
以上はもちろん特異なケースにちがいない。大方は「死んだと思っていた者が生きて無事に帰って来た」その喜びにわき、成否は別としても文字どおり「死んだつもりで」仕事に励んでいるそうである。
たとえば、小企業ながらも機械の設計にたずさわる中野利幸さん(53)。この人、東京物理学校(現在の東京理科大)を卒業して間もなく、1941(昭和16)年、千葉陸軍第5戦隊に二等兵で入隊した。満州の興城(こうじょう)に渡り、第22航空無線隊に配属されたが、大隊長に面会のため奉天(ほうてん)に行ったとき、終戦となった。
興城に残してきた部下8人が心配で戻ったとき、すでに部下は他の部隊とともに基地を去ったあと。中野さんは奉天に引き返さざるを得なかった。兵隊の格好では危険なので、現地人になりすまして生活していたが、ある日、在郷軍人会から、軍人・軍属は極秘裏に集まるよう指令を受ける。彼らは帰国できると小躍りして行ったが見事にはかられ、結果はシベリアのラーゲリ(※強制収容所)行きだ。
一方、終戦の年に帰国した中野さんの部下は、中野家に事情を報告するなどしていた。が、翌年になって正式に、中野さんは「生死不明」との通知が出された。中野さんの両親は以来、陰膳を据えて毎日無事を祈るとともに、当時盛んだった「帰還促進運動」に参加して、ソ連大使館にデモをかけたりしたという。
1949(昭和24)年にナホトカのラーゲリから便りがあり、やがて中野さんの帰国となった。以来、中野さんはいくつかの職を経て、「よし、リヤカーひっぱって自分の仕事をやってやる」という意気込みで、現在の仕事を始めたという。
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