「てるてるワイド」「やる気MANMAN」で打倒・ニッポン放送を達成 「吉田照美」が貫いた「バカで通す放送」の覚悟

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番組に集まった俊英たち

 スタッフの熱を形に変える放送作家たちも、優秀な人材がそろっていた。後に岸田戯曲賞作家となる宮沢章夫氏も、作家としての仕事は「てるてるワイド」がスタートだった。また、「笑っていいとも!」「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)などで知られ、当時のお笑い界ではナンバー1と言われた加藤芳一氏も関わっていた。

「忘れちゃいけないのが、小山薫堂君ですね。『カノッサの屈辱』『料理の鉄人』(フジテレビ)、脚本家として映画『おくりびと』を手がけた彼も、『てるてるワイド』では最初、ADのアルバイトをやっていたんです。ボクがフリーになった際は一時的にドライバー兼マネージャーもやってもらいました。でも、あんなにエラくなるとはね(笑)。今思うと、物凄い才能が集結していたんだなと思います」

 リスナーの女の子がお風呂に入り、その様子を1分間、カセットに録音。最後に体のどこかを自分で叩くという「バスルームより愛をこめて」なる名企画も。想像力を掻き立てられ、思春期の男の子にはたまらない内容だった。

「スタッフの熱はアツかったし、リスナー受けも良かった。でも、勝てるとは思っていませんでした。ニッポン放送の“壁”は、それくらい高いものだと思い込んでいたんです」

 しかし、放送開始から1か月後にはニッポン放送に並び、翌81年1月には単独首位に躍り出る。これまで、決して文化放送が到達できなかった夜のワイド放送で、トップに立ったのだ。

「たのきんブーム、聖子ちゃんブームにうまく乗ることができたのも大きいですよね。ボクがマッチ(近藤真彦)から『ロバ』とあだ名されて広まったこともあり、文化放送アナウンス部に大量のニンジンがリスナーから送られてくるんです。とても食べきれないし、持って帰れないのでそのままにしておくと臭ってきて……先輩たちから『ちょっと吉田君』と小言を言われましたが、数字を取るようになると、何も言われなくなりましたね(笑)」

 ヘビーリスナーだった記者(50代後半)には忘れられない記憶がある。夏休みか冬休みだったかは定かではないが、明日からは学校、という前日の放送。エンディングの最後のところで、吉田さんが何度かこう言ったのを覚えている。

「明日ちゃんと学校行けよ」

「そんなこと言ってましたか(笑)。番組の全体的な流れはボクと林山さんが話して決めていましたが、初めはワイワイ、ガヤガヤと大騒ぎしているけど、最後はボクの周りで何かいい話があったらそれを語ったり、リスナーの思いを伝えたりするコーナーで終わる構成にしようと決めていました。『てるてるワイド』なら『吉田照美のなにげない感動』というコーナー。これは『セイ!ヤング』から続けていたものです。そうした番組の流れの中で、そんな発言が出たのかもしれませんね」

誰に向かってしゃべり続けてきたのか

「てるてるワイド」で夜の首位を取った吉田さんに、文化放送は新たな依頼をする。

 ラジオはテレビと違い、「ゴールデンタイム」と呼ばれるのは昼の時間帯だ。運転や作業など、仕事をしながら聞く人たちが多い時間帯である。1987(昭和62)年4月に「てるてるワイド」が終了すると、同月、午後1時から昼の帯番組「吉田照美のやる気MANMAN」が始まった。この時間帯、やはり首位の座をキープしていたのがニッポン放送「いまに哲夫の歌謡パレードニッポン」だった。

「また文化放送は最悪なオファーを出すなぁと思いましたね。この時はフリーになっていましたが、仕事は欲しいし(笑)。でも、あの枠は誰がやっても勝てなかったんです。それぐらい、いまに哲夫さんは強かった。昼間って、静かなしゃべりで、音楽のチョイスもよくて、リスナーのさりげない投稿を読んで……なんて、全部ボクがやってないことでしょう(笑)。だからどうしようかと、最初は迷いがありました。とはいえ、ボクのしゃべりは変えられないし、変わらない。それなら主語も今まで通り『オレ』、たまに『ボク』、時々は『わたし』でいいやと(笑)」

 この時間帯は「働くあなたのためのラジオ」というのが番組作りの主要コンセプトであり、文化放送もそれを謳っていたが、「それはできないな」と思った吉田さんは「てるてるワイド」と同様に、番組全体をひとことで言えば「バカで通す」放送を貫くことに決めた。

「ゴールデンですから制作や編成だけでなく、広告や営業サイドも注目する時間帯です。だからって、八方丸く収まる放送よりも、変に気を遣わないというか、欠点や弱点を露骨に出したり、出されちゃったりする方が、ひょっとしたら聴いている人には面白いんじゃないかなぁと。ただ、ディレクターたちは大変だったと思いますよ。演者のボクらには一切耳に入ってこないように配慮していましたけど、相当、クレームの電話はあったと思います。何と言っても内容が、くだらないのを通り越して、下品ですからね(笑)」

 当初は2位と3位をいったりきたりしていた時間帯聴取率だが、スタートから3年目には曜日別では1位を取る日も出るように。そして93年、時間帯聴取率で1位を獲得。こちらも悲願だったニッポン放送超えを果たすことに(ちなみに2007年の放送終了まで、時間帯聴取率の1位獲得通算回数は、実に55回!)。

 夜と昼で、「打倒・ニッポン放送」を果たした吉田さん。「セイ!ヤング」では若者を、「てるてるワイド」では中高生を、「やる気MANMAN」では様々な層が聴取者となったが、

「しゃべり手として、自分の全ての言葉を理解してくれる人はそもそもいない、という前提がボクにはあります。でも、自分と同じような気持ちや考えをもった人が聴いていてくれると思ったら、気が楽だな……そう思ってどの番組もやってきました。自分がこの世界を目指したきっかけでもあり、憧れだった小島一慶さんが亡くなる直前にボクの番組に出て下さった際、『どういう人に向かってしゃべっていましたか?』と聞いたら、ボクと同じ考えをお話しになったんです。それで、これが正解なのかもしれないと思うようになりました」

 今も第一線でしゃべり続ける吉田さん。若いスタッフや出演者とのコミュニケーションもうまくこなしている。最後に、若い人にやってはいけない3つのダメ「昔話」「自慢話」「説教」について、オジサン記者がアドバイスを乞うと、

「三つともオレは今でもやってるな(笑)。難しく考えることはないですよ。どれも面白くすればいいんです。面白くない自慢や昔話をするから嫌がられるんです。そのために、常にしゃべるネタを探すことが大切。もちろん、ボクも常に話のネタ探しは欠かしません」

【第1回は「『セイ!ヤング』で深夜ラジオを席巻した『吉田照美』伝説 NHKニュースで放送された“東大ニセ胴上げ事件”の真相 『裏番組がタモリさんだったので……』」吉田さんがアナウンサーを目指したきっかけと伝説の事件の舞台裏を詳しく】

吉田照美(よしだ・てるみ)
1951年、東京都葛飾区出身。早稲田大学卒業後の1974年、文化放送にアナウンサーとして入社。78年4月、同局の看板番組だった深夜放送「セイ!ヤング」に抜擢され、注目される。80年、夜のワイド番組「吉田照美のてるてるワイド」で初の冠番組をスタート。同時間帯で聴取率1位となり、またたく間に人気パーソナリティーに。85年3月、文化放送を退社しフリーに。テレビにも進出し「夕やけニャンニャン」(フジテレビ)、「11PM」(日本テレビ)などの司会を務め、全国区の顔に。文化放送ではその後「吉田照美のやる気MANMAN」(87年~07年)、など数々の名番組を世に送り出す。油絵画家としても活動しており、三軌会会員・評議委員。現在のレギュラーは「てるのりのワルノリ」「伊東四朗・吉田照美 親父熱愛(パッション)」(文化放送)、「TERUMI de SUNDAY!」(bayfm)など。

デイリー新潮編集部

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