【べらぼう】久しぶりに登場した松平定信 田沼を否定する改革の裏で糸を引いていた人物
定信はなぜ田沼を恨んだのか
久しぶりに登場した。NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第29回「江戸生蔦屋仇討(えどうまれつたやのあだうち)」(8月3日放送)のラストシーンで、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)がヒットさせた黄表紙『江戸生艶気樺焼』を手にしながら、「仇」とつぶやいたのは松平定信だった。ただし、前回の登場からは10年以上が経ち、演じる俳優も寺田心から井上祐貴に替わっていた。
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第30回「人まね歌麿」(8月10日放送)で、定信は一橋治済(生田斗真)から、幕政に関わる気がないかと誘われた。簡単には承諾できない事情を述べながらも、治済の誘いを受けた定信は、老中たちとともに「溜間」に控えることになった。溜間とは、大名たちが詰める伺候席のなかでも、将軍の政務や生活空間である「中奥」に一番近い位置にあった。その場所で定信は、田沼意次(渡辺謙)を質問攻めにした。
定信は田沼を天敵とみなしており、自邸では反田沼派の大名や旗本と会合を開くほか、田沼を追い落とすための方策を次々に考える。では、なぜ田沼が天敵だったのか。
定信は田安家の跡取り候補で、ひいては次期将軍候補でもあった。『べらぼう』で眞島秀和が演じる10代将軍徳川家治が死去すると、一橋治済の長男の豊千代が11代将軍家斉になった。だが、田安家は一橋家より家格が上だった。田安家は8代将軍吉宗の次男宗武にはじまるが、一橋家の家祖は四男宗尹。家治の嫡男が死去した以上、定信が将軍の跡取りになるのは自然だった。少なくとも、豊千代より定信が優先されて当然だった。
ところが安永3年(1774)、定信は男子がない白河藩主、松平定邦の養子になることが決まる。その後、病弱な兄の田安治察の死後、養子解消を願い出たが認められなかった。定信の自伝『宇下人言』には、定信が田安家を継ぐという約束を、意次が反故にした旨が書かれている。実際には、定信が白河藩を継いだのは、一橋治済らの意向も働いた結果だが、定信はひとえに意次を恨んだようなのだ。
ただ、定信が政治の表舞台に登場するのは、もう少しあとになる。
意次を刺し殺そうとねらっていた定信
『べらぼう』で描かれたように、天明5年(1785)には溜間に詰め、老中と同席して政務に加わるようになった。そして、同6年(1786)8月に将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中職を解かれると、御三家や御三卿は定信の老中に推薦した。だが、その時点では、幕府内にまだ田沼の息がかかった吏僚たちが多く、田沼の減刑運動も行われていた。
老中になったのは、家治の死去から10カ月ほどの天明7年(1787)6月19日で、その前に定信は、将軍に上奏文を出していた。その文中には大胆な告白も見られる。「中にも主殿頭(田沼意次のこと)心中その意を得ず存じ奉り候に付、刺し殺し申すべくと存じ、懐剣までこしらへ申し、一両度まかり出候処、とくと考へ候に、私の名は世に高く成り候へども、右にては天下に対し奉り、かえって不忠と存じ奉り候」。
定信みずから懐に剣を忍ばせ、機会があれば田沼を刺し殺そうとし、実行しようとしたこともあったという。定信が自分でそう書いているくらいだから、意次の嫡男の意知を斬殺した佐野政言のほかにも、田沼に襲いかかりうる人物が何人もいたということだろうか。
いずれにせよ、定信の田沼への嫌悪感は、定信が手がけ、江戸時代の三大改革として有名な「寛政の改革」に反映される。だが、先進的な田沼政治を次々と転換した定信の政治が「改革」と呼ばれることには、私は違和感を禁じえない。
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