【べらぼう】久しぶりに登場した松平定信 田沼を否定する改革の裏で糸を引いていた人物
田沼時代の先進性の否定
たとえば、印旛沼と手賀沼の干拓事業。この工事は農地の拡大も目的のひとつではあったが、それ以上の目論見があった。利根川から印旛沼を抜けて江戸に入れる水上の流通路の創設である。これができれば江戸と北方を結ぶ航路が大幅に短縮され、商品の流通がおおいに活性化されるはずだった。
その工事は3分の2が終了していたが、運の悪いことに家治の死去の1カ月前、関東地方が大洪水に見舞われ、完成していた箇所も土砂に埋もれてしまった。この洪水は、3年前の浅間山の大噴火で土砂が積もり、川底が高くなっていたために発生したとみられるが、ともかく、定信は計画そのものを中止させた。
また、田沼は『べらぼう』で描かれたように、蝦夷地(北海道)の開発に熱心だった。意次はアイヌに農具や種子をあたえ、彼らを農民化し、蝦夷地を開発したうえでロシアなどとの貿易をしようと考えていた。一方、定信の考え方は、蝦夷地が荒れ野のままなら、ロシアなどが北方から攻めてきても駐屯できないから、開発をしないほうがいいというものだった。したがって、蝦夷地の調査も開発も中止されてしまった。
通貨改革ももとに戻された。江戸時代には金貨、銀貨、銭貨がそれぞれ独立し、交換相場が変動しがちだった。そこで意次が発行したのが、8枚で小判1枚と交換できる純度98%の銀貨「南鐐二朱銀」だった。相場変動にわずらわされないように通貨の一元化を進め、貨幣の価値を安定させようとしたのだ。
金貨と銀貨の両替で利益を上げていた両替商は反発したが、それは社会の古い体制に寄生する抵抗勢力の反発だった。しかし、定信はせっかく定着しはじめていた南鐐二朱銀を廃止し、通過の一元化を反故にした。
ほかにも、文化的に自由度が高かった田沼時代とは打って変わって、出版のほか芝居などの庶民の娯楽にも、厳しい統制を加えた。田沼時代は学問の自由度が高く、蘭学なども奨励されたが、武士の道徳の基盤だった朱子学以外の学問が禁止されてしまった(寛政異学の禁)。
松平定信も守旧派に翻弄された
もっとも、近年では、寛政の改革は田沼政治と連続する面が少なからずある、と指摘されている。たとえば、田沼政治では株仲間という商工業者の同業者組合を積極的に認める代わりに、運上金という税を徴収し、幕府財政の足しにしようとした。定信は株仲間をすっかり解散させたようにいわれてきたが、実際には大部分を存続させ、運上金を上納させた。
このように寛政の改革でも、富商や富農と連携しつつ重商的な政策を推し進める面が濃厚だった。定信はキャンペーンとしては「反田沼」を高々と打上げ、それによって御三家や御三卿の支持を得たが、現実には、田沼政治が推し進めた方向から逆戻りはできない、と理解していたものと思われる。
反田沼の政策が本当の意味で定着したのはむしろ、定信が老中職を解かれてからだった。定信は老中と将軍補佐役を兼務していたが、寛政5年(1793)7月、将軍補佐の辞退を申し出たところ、老中職も解かれてしまった。
それに先立って定信は、『べらぼう』で生田斗真が演じている将軍家斉の父、一橋治済の要望を却下していた。治済が将軍の父として「大御所」の称号を求めたのを拒んだのがひとつ。「大御所」は引退した前将軍にあたえられる称号で、治済は将軍職に就いたことがないのにそれを求めたのだ。同じ時期に治済は、一橋家の屋敷が手狭になったからと、江戸城内の二の丸か三の丸に移る希望を出したが、これも却下した。
将軍の父として幕政に深く関与し、権勢を誇った一橋治済にとって、意のままにならなくなった定信はもはや不要だったのだろう。結局、出版統制がさらに厳しくなったのも、蝦夷地の開発が完全に後退したのも、定信の失脚後のことだった。
定信は一橋治済や御三家の意のままになるまいとしたが、その結果、排除された。結局、田沼意次にも松平定信にも勝ったのは、一橋治済ら守旧派であった。このため日本は幕末まで、改革と発展の機会を逸するのである。
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