「南京大虐殺はなかった」「うそつき!」 戦後80年たっても続く不毛な論争の終わらせ方

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すれ違い続ける議論

 だが、そもそも櫻井氏の意図とは違うものを批判したところで、議論は成立しない。冒頭で紹介した質疑応答と同様、同じ「南京大虐殺」といっても、櫻井氏は「中国の政治宣伝」を、批判する人は「歴史的事実」を思い浮かべており、すれ違い続けるためだ。

 それどころか、こうした論争がもたらす最悪の結果として生じるのが、「櫻井よしこでも『なかった』と新聞に書いて載るのだから、やっぱり残虐行為などなかったのだろう」というさらなる誤解である。

「一部のサヨクっぽい人たちに批判されている。だから櫻井氏が書いたという『南京での虐殺行為はなかった』というのが本当なのだろう」とばかりに、こうした誤解が流布されていくことになる。こうした誤解が広まることは、保守派であろうと、それを批判する人であろうと望んでいないはずで、まずはこの誤解の広がりを止める必要があるだろう。

 南京における、虐殺とされても仕方ない残虐な事例の存在は認めざるを得ない。だがその規模については諸説あり、日本の学者の間では犠牲者数も2万から20万と幅がある。中国は30万、40万を主張しているが、現在、さすがにこれを歴史的事実としてそのまま肯定している日本の学者は多くはない。

 本来は日中が合同で実態解明にあたるべきだが、中国にとって南京での30万、40万の犠牲は抗日建国神話の一部を成しており、客観的歴史検証を受け入れる状況にない。日中共同歴史研究でも見解は一致せず、中国側「30万人以上」、日本側「20万を上限として、4万人、2万人」と書かれている。

 少なくとも日本国内で話し合う際には「中国の言う30万、40万はかなり盛られた政治的な犠牲者数である」ことはまず大前提として踏まえる必要がある。そうでなければ、保守派の「強めに『南京大虐殺』を否定しなければ中国の言い分が定着してしまう」との危機感は募るばかりだからだ。しかも、直接の影響があるかは不明だが、中国で抗日意識が刺激されたことが、昨年来、中国国内で起きている日本人の子供を狙った襲撃事件につながっている可能性も指摘されている。

 だが、こうした主張さえ、批判する側からは「人数の問題ではない」などと言われ、無視されてしまう。そして歴史修正だと批判されることたびたびというのが現実なのだ。
 
 そもそも南京大虐殺、と表記すると「何人からが『大』虐殺なのか」「何をもって虐殺なのか」といった定義論争に陥る。くしくも、日本の二大教養新書レーベルである岩波新書からは笠原十九司『南京事件 新版』が、中公新書からは秦郁彦『南京事件 増補版』が刊行され、いずれも「南京大虐殺」ではなく「南京事件」と題している。中国の主張を脇に置いて、ある程度史実に基づく議論をする際には「南京事件」と呼称した方がいいのかもしれない。

 ちなみに、それぞれ犠牲者数に関しては前者が10万から20万、後者が3万8000から4万2000としている。

 これ以上の誤解が広まるのを防ぐためには、保守派は今後、内輪にしか通じない(もっと言えば揚げ足を取られかねない)表現をやめ、せめて「いわゆる」と付けるなど、外側の人が読んでも伝わる書き方を心がけるべきだろう。

 一方、保守派を批判したい人も「さすがに中国の言う数字は過大に見積もられた政治的なものであり、客観性のある歴史検証を受け入れないのは問題である」ことは踏まえた上で議論すべきではないだろうか。そこを認めたところで、保守派や歴史修正主義者に「一歩譲る」ことにはならないのだから。

 議論の隙間に「残虐行為ゼロ」派が台頭してくる現在、同じ「南京大虐殺」について論じようにもそれぞれの認識が異なっているというずれを自覚したいところだ。そのためにも、前提をすっ飛ばした何の留保もない「南京大虐殺はあったか、なかったか」という問い方をまずはやめるところから始めたい。

梶原麻衣子
1980年埼玉県生まれ。中央大学卒業。月刊「WiLL」、月刊「Hanada」編集部を経て現在はフリーの編集者・ライター。著書に『“右翼雑誌”の舞台裏』(星海社新書)。

デイリー新潮編集部

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